徳川家康から津山松平家へ
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いずれにしても稲葉重通(もしくは道通)が所持していた本作は、徳川家康が所望したことにより500貫にて買い取られることになった。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発した際には、家康は会津の上杉景勝を制圧するために東下していた。しかし、畿内でも石田三成が挙兵したとの報せを受けて家康は下野国小山で引き返すことになり、対上杉の手勢として家康の次男である結城秀康を宇都宮に残すことになった。家康は秀康に対して、激励の意味も込めて秘蔵の具足や軍配、そして本作を秀康に与えることになった。戦後、秀康は越前北ノ庄藩68万石を与えられ、後に松平姓へと復姓した。 その後は秀康の子である忠直、次いでその子光長へと伝わっていた。なお、光長の時代に奇人刀工として知られる大村加卜が越後国高田藩に仕えていた関係から本作の実見が許されていたようであり、著作『剣刀秘宝』に押型が集録されている。『剣刀秘宝』には、鋩子(ぼうし、切先の刃部分)に金輪が入っているが一枚鋩子(切先内すべてに焼きが入っているもの)であるため判然とは見えないこと、本阿弥光温によって「日本に一つ二つの道具」であると本作が賞賛されたことが記されている。光長の養子である宣富から始まる津山松平家に太平洋戦争終戦後まで伝来する。徳川8代将軍吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』にも記載されている。
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