徳川家康から津山松平家へとは? わかりやすく解説

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徳川家康から津山松平家へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 02:29 UTC 版)

稲葉江」の記事における「徳川家康から津山松平家へ」の解説

いずれにしても稲葉重通もしくは道通)が所持していた本作は、徳川家康所望したことにより500貫にて買い取られることになった1600年慶長5年)に関ヶ原の戦い勃発した際には、家康会津の上景勝制圧するために東下していた。しかし、畿内でも石田三成挙兵したとの報せ受けて家康下野国小山で引き返すことになり、対上杉の手勢として家康次男である結城秀康宇都宮に残すことになった家康は秀康に対して激励の意味込めて秘蔵具足軍配、そして本作を秀康に与えることになった戦後、秀康は越前北ノ庄藩68万石与えられ、後に松平姓へと復姓した。 その後は秀康の子である忠直次いでその子光長へと伝わっていた。なお、光長の時代奇人刀工として知られる大村加卜越後国高田藩仕えていた関係から本作実見許されていたようであり、著作『剣刀秘宝』に押型集録されている。『剣刀秘宝』には、鋩子(ぼうし、切先刃部分)に金輪入っているが一枚鋩子切先内すべてに焼き入っているもの)であるため判然と見えないこと、本阿弥光温によって「日本一つ二つ道具」であると本作賞賛されたことが記されている。光長の養子である宣富から始まる津山松平家太平洋戦争終戦後まで伝来する徳川8代将軍吉宗本阿弥家命じて編纂させた名刀目録である『享保名物帳』にも記載されている。

※この「徳川家康から津山松平家へ」の解説は、「稲葉江」の解説の一部です。
「徳川家康から津山松平家へ」を含む「稲葉江」の記事については、「稲葉江」の概要を参照ください。

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