徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治)
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「文治政治」の記事における「徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治)」の解説
宝永6年(1709年)、綱吉は62歳で亡くなった。嫡男の徳松に先立たれていた為、甥の甲府藩主徳川家宣が6代将軍に、次いで7代将軍に幼児の徳川家継が就任する。この時期は将軍が病弱・幼年ということもあり、家宣の側近である間部詮房と朱子学者の新井白石が政治を主宰した。この政権の課題は、将軍が短命・幼弱ということもあり、「如何にして将軍個人の人格よりも将軍職の地位とその権威を高めるか」であり、綱吉の頃と同様、朱子学の影響を受けた政策と言える。 新井白石は家宣が将軍就任後すぐに生類憐れみの令を廃止し、柳沢吉保を罷免した。そして政権の課題を解決する為に行ったことは第一に天皇家の権威を借りることとした(閑院宮家の創設、霊元天皇の息女、八十宮吉子内親王と家継の婚約)。第二に宝永の武家諸法度を発布し、衣服の制度を制定し、徳川家の家紋である葵の紋所の使用を制限した。第三に朝鮮通信使の待遇を簡素化し、朝鮮から日本宛の国書を「日本国大君殿下」から「国王」へと修正させた。 白石の経済政策は綱吉の時代の施策と逆の施策を採用した。第一がデフレーション施策である正徳改鋳である。これにより貨幣発行量が減少し、景気を冷え込ませた。第二に、長崎貿易は大幅な輸入超過であることに鑑み(つまり金銀が海外に流出することを意味した。金銀の海外流出は貨幣の裏づけが金銀である以上、国内の貨幣流通量を減少させることとなり、景気を冷え込ませることを意味した)、正徳5年(1715年)に海舶互市新例(長崎新令)を発布し、長崎貿易を制限した。 家綱の頃に端を発した、江戸幕府の財政難は文治政治の時代に悪化の一途を辿った。江戸幕府の財源は米に依拠しているにもかかわらず、米価がその他の物価に対し相対的に下落していく傾向を放置した状態であり、4代将軍から7代将軍の頃には解決できず、8代将軍徳川吉宗の享保の改革を待つこととなる。
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