徳川家宣・徳川家継の時代とは? わかりやすく解説

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徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 21:41 UTC 版)

文治政治」の記事における「徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治)」の解説

宝永6年1709年)、綱吉62歳で亡くなった嫡男徳松先立たれていた為、甥の甲府藩主徳家宣6代将軍に、次いで7代将軍幼児徳川家継就任する。この時期将軍病弱幼年ということもあり、家宣側近である間部詮房朱子学者新井白石政治主宰した。この政権課題は、将軍短命幼弱ということもあり、「如何にして将軍個人人格よりも将軍職地位とその権威高めるか」であり、綱吉の頃と同様、朱子学影響受けた政策と言える新井白石家宣将軍就任後すぐに生類憐れみの令を廃止し、柳沢吉保罷免した。そして政権課題解決する為に行ったことは第一に天皇家権威借りこととした(閑院宮家の創設霊元天皇息女八十宮吉内親王家継婚約)。第二宝永武家諸法度発布し衣服制度制定し徳川家家紋である紋所使用制限した第三朝鮮通信使待遇簡素化し朝鮮から日本宛の国書を「日本国大君殿下」から「国王」へと修正させた。 白石経済政策綱吉時代施策と逆の施策採用した第一デフレーション施策である正徳改鋳である。これにより貨幣発行量減少し景気冷え込ませた。第二に、長崎貿易大幅な輸入超過であることに鑑み(つまり金銀海外流出することを意味した金銀海外流出貨幣の裏づけが金銀である以上、国内貨幣流通量減少させることとなり、景気冷え込ませることを意味した)、正徳5年1715年)に海舶互市新例長崎新令)を発布し長崎貿易制限した家綱の頃に端を発した江戸幕府財政難文治政治時代悪化一途辿った江戸幕府財源は米に依拠しているにもかかわらず米価その他の物価対し相対的に下落していく傾向放置した状態であり、4代将軍から7代将軍の頃には解決できず、8代将軍徳川吉宗享保の改革を待つこととなる。

※この「徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治)」の解説は、「文治政治」の解説の一部です。
「徳川家宣・徳川家継の時代(正徳の治)」を含む「文治政治」の記事については、「文治政治」の概要を参照ください。

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