徳川家伝来「祇園精舎図」
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「祇園精舎」の記事における「徳川家伝来「祇園精舎図」」の解説
江戸幕府三代将軍・徳川家光は、長崎のオランダ語の通訳・島野兼了(嶋野兼了)に仏教の聖地「祇園精舎」の視察を命じている。その頃、カンボジアのプノンペンの日本人町の人達は、アンコール・ワットが祇園精舎であると誤認していた為、その誤った情報が日本にも伝えられ、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていた。 島野兼了もその誤った情報により、そこが天竺(インド)の「祇園精舎」であると思い込んだままアンコール・ワットを視察し、一枚の「見取図」を作成した。また、一説には森本一房が作成したとも考えられている。それが当時の長崎奉行・藤原忠義によって正徳5年 (1715年) に模写され、その後所有者の変遷はあったものの『祇園精舎図』と題された古地図は、今も彰考館(茨城県水戸市)に保存されている。明治末期になって、建築史学者の伊東忠太がこの見取図を鑑定した結果、全体構造から推してアンコール・ワットの見取図であることが判明した。
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