徳川家を恐れさせた存在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
昌幸の死後、信之はその葬儀に関して家康の側近である本多正信に尋ねた。それに対して正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告している。死してなお、昌幸は容易に許されなかったのである。 徳川家康は大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。これは当代随一の戦術家である昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。また、その時家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁と知って安堵したとも伝わる。 家康とは相容れぬ関係にあり、反骨精神が旺盛であった。家名存続のために信之を送り込んでいるが、一定の距離は保った。2度の上田合戦で勝利した事からも、昌幸の自負心の高さが伺える。
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