閑院宮家の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:40 UTC 版)
当時、宮家は伏見宮家、京極宮家、有栖川宮家と3家あり、この3家を継いだ場合を除き親王を名乗ることができず、その他の皇室の子女はすべて出家されるという形になっていた。朝幕共存共栄の見地から、皇家の血統に万一があった場合を考えての創設であった。宝永7年(1710年)の宮家創設から半世紀後、後桃園天皇が崩御し皇継が絶えそうになった際、閑院宮家から典仁親王の第6王子・兼仁王が光格天皇となり、その後、光格→仁孝→孝明→明治→大正→昭和→明仁→徳仁と続き、今日に続いている。閑院宮家の設立は皇継断絶を救う結果となったのである。
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