閑谷精舎時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 03:51 UTC 版)
1870年(明治3年)の藩政改革によって同年9月閉鎖される。学房と習字所、教官宿舎は明治維新後に撤去された。講堂などの主要施設についても、一時撤去の動きがあったが、1872年(明治5年)夏頃より岡山の中川横太郎・谷川達海らが中心となって再興に向けた運動が行われた。池田慶政が資金を提供し、備中の漢学者山田方谷を招いて1873年2月に、『閑谷精舎』として改称され再び学問の場となった。山田方谷は刑部(現在の大佐町)にも塾を開いていたために、閑谷精舎には年2回ほど訪れ、一度の訪問で2-3カ月滞在したとされる。山田方谷の他にも方谷の高弟である鎌田玄渓や興譲館の坂田警軒が招聘された。しかし、講義が漢学に偏っていた為に次第に生徒数が減少。1877年(明治10年)に休校に至り、閑谷精舎時代は僅か4年で終わった。
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