閑院宮家と玉川遠州流
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皇室所有の庭園である京都御苑の敷地内に残る閑院宮邸跡は、今も唯一、創建以来の場所にある。 系譜 玉川遠州流を嗜んだ親王(※) 初代直仁親王(霊元法皇の孫、東山天皇の皇子)-2代典仁親王(※)-3代美仁親王(※)-4代孝仁親王(※)-5代愛仁親王(早世、30年断絶)-6代載仁親王-7代春仁王 閑院宮家は、第118代後桃園天皇が病弱で後嗣(こうし、あとつぎ)がいないため、天皇の血筋の断絶を危惧した江戸時代中期の儒学者で政治家の新井白石の建言により、1710年、霊元法皇の孫、第113代東山天皇の第6皇子である直仁(なおひと)親王を始祖として創立される。1718年、霊元法皇より閑院宮の宮号を贈られる。実際、1779年、第118代後桃園天皇が男子のないまま崩御(ほうぎょ)すると、閑院宮2代典仁(すけひと)親王の第6王子で3代美仁(はるひと)親王の弟の師仁(もろひと)親王が、生後まもない後桃園天皇の皇女 欣子内親王(よしこないしんのう)の婿となって第119代光格天皇となる。光格天皇は、一代前の後桃園天皇とは、ほとんど血縁関係がなく、光格天皇の血筋は現在まで代々直系継承が続いている。光格天皇は、現在の皇室の初代天皇で、今上天皇の6代前にあたる。つまり、閑院宮家は、現皇室の血筋の源流となる本家といえる。そして、光格天皇は、在位39年、院政23年の後、崩御。皇室権威の復活、伝統の復活に尽力した天皇として知られている。玉川遠州流を嗜んだ閑院宮家の親王は、2代典仁(すけひと)親王、3代美仁(はるひと)親王、4代孝仁(たつひと)親王である。5代愛仁(なるひと)親王は25歳で薨去(こうきょ)。直系の後嗣が無く、玉川遠州流の閑院宮家での伝存は、4代孝仁親王が薨去(こうきょ)した1824年3月10日(文政7年2月10日)に絶える。茶を嗜む閑院宮家の平和は終わり、以降は、茶を嗜む時間もない戦争の世代になる。30年間当主のいない閑院宮家は、1871年(明治5年)、伏見宮第20代邦家(くにいえ)親王第16王子の載仁(ことひと)親王を養子に迎え、閑院宮家6代の親王となる。載仁親王は、フランスへ留学、騎兵学校、陸軍大学校を卒業し帰国。1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を得た。1920年(大正9年)、陸軍演習の挨拶のため、東北三大地主の一つである秋田県大仙市高梨の池田家に来秋。1931年(昭和6年)~1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。1945年(昭和20年)、81歳で薨去。葬儀は国葬の儀をもって行われ、稀に見る美男子であった。7代春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子として、1902年(明治35年)に誕生。陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将。1947年(昭和22年)に皇籍離脱。閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。閑院純仁は実業家としては成功を収めたものの、1988年(昭和63年)、85歳で逝去。純仁に実子はなく、また養子を取らなかったので閑院家は断絶となった。
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