閑院宮家と玉川遠州流とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 閑院宮家と玉川遠州流の意味・解説 

閑院宮家と玉川遠州流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 17:25 UTC 版)

玉川遠州流」の記事における「閑院宮家と玉川遠州流」の解説

皇室所有庭園である京都御苑敷地内に残る閑院宮邸跡は、今も唯一創建以来の場所にある。 系譜 玉川遠州流を嗜んだ親王(※) 初代直仁親王霊元法皇の孫、東山天皇皇子)-2代典仁親王(※)-3代美仁親王(※)-4代孝仁親王(※)-5代愛仁親王早世30年断絶)-6代載仁親王7代春仁王 閑院宮家は、第118後桃園天皇病弱後嗣(こうし、あとつぎ)がいないため、天皇血筋断絶危惧した江戸時代中期儒学者政治家新井白石建言により、1710年霊元法皇の孫、第113東山天皇の第6皇子である直仁(なおひと)親王始祖として創立される。1718年霊元法皇より閑院宮宮号贈られる実際1779年、第118後桃園天皇男子のないまま崩御ほうぎょ)すると、閑院宮2代典仁(すけひと)親王の第6王子3代美仁(はるひと)親王の弟の師仁もろひと親王が、生後まもない後桃園天皇皇女 欣子内親王(よしこないしんのう)の婿となって第119代光格天皇となる。光格天皇は、一代前の後桃園天皇とは、ほとんど血縁関係がなく、光格天皇血筋は現在まで代々直系継承続いている。光格天皇は、現在の皇室初代天皇で、今上天皇6代前にあたる。つまり、閑院宮家は、現皇室血筋源流となる本家といえる。そして、光格天皇は、在位39年院政23年の後、崩御皇室権威復活伝統復活尽力した天皇として知られている。玉川遠州流を嗜んだ閑院宮家親王は、2代典仁(すけひと)親王3代美仁(はるひと)親王4代孝仁(たつひと)親王である。5代愛仁(なるひと親王25歳薨去こうきょ)。直系後嗣無く玉川遠州流閑院宮家での伝存は、4代孝仁親王薨去こうきょ)した1824年3月10日文政7年2月10日)に絶える。嗜む閑院宮家の平和は終わり以降は、嗜む時間もない戦争の世代になる。30年当主のいない閑院宮家は、1871年明治5年)、伏見宮20代邦家(くにいえ)親王16王子の載仁(ことひと親王養子迎え閑院宮家6代親王となる。載仁親王は、フランスへ留学騎兵学校陸軍大学校卒業し帰国1912年大正元年)に陸軍大将となり、1919年大正8年)には元帥称号得た1920年大正9年)、陸軍演習挨拶のため、東北三大地主一つである秋田県大仙市高梨池田家来秋1931年昭和6年)~1940年昭和15年)まで参謀総長務めた1945年昭和20年)、81歳で薨去葬儀国葬の儀をもって行われ稀に見る美男子であった7代春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子として、1902年明治35年)に誕生陸軍大学校兵学教官などを経て終戦時陸軍少将1947年昭和22年)に皇籍離脱閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した閑院純仁実業家としては成功収めたものの、1988年昭和63年)、85歳逝去。純仁に実子はなく、また養子を取らなかったので閑院家断絶となった

※この「閑院宮家と玉川遠州流」の解説は、「玉川遠州流」の解説の一部です。
「閑院宮家と玉川遠州流」を含む「玉川遠州流」の記事については、「玉川遠州流」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「閑院宮家と玉川遠州流」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「閑院宮家と玉川遠州流」の関連用語

閑院宮家と玉川遠州流のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



閑院宮家と玉川遠州流のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの玉川遠州流 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS