閑谷黌時代
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閑谷精舎が休校となって4年経過した1881年(明治14年)、元岡山県参事の西毅一は、中川横太郎や岡本嶺らとともに『閑谷保黌会』(ほこうかい)を組織し、財界や有識者より資金を募り、閑谷学校再興の活動を行った。備前8郡の主長も協力し、1884年(明治17年)8月に改称『閑谷黌』(しずたにこう)として開学式を執り行った。西毅一は岡山から閑谷に引っ越し、黌長に就任した。閑谷黌では閑谷精舎の失敗を踏まえて、英学・漢学・数学の3教科を教え、就学期間は3年間。入学生とは14歳以上、講義は週24時間とされた。閑谷黌では小説家の正宗白鳥や詩人の三木露風なども学んでいる。閑谷黌を1898年(明治31年)に志賀重昂とともに訪れた井土霊山はその教育の特色として「品行と学術との並修、寧ろ品行に重きを置く事」「浮華を斥けて実用を旨とする事」「空言を戒めて実践を主とする事」の三つを挙げている。
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