徳川家康再建時代とは? わかりやすく解説

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徳川家康再建時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)

伏見城」の記事における「徳川家康再建時代」の解説

関ヶ原の戦い勝利した徳川家康は翌慶長6年1601年3月入城し伏見城二条城再建開始する。翌慶長7年1602年6月には藤堂高虎普請奉行起用され同年末頃にはほぼ再建がなり、同年12月には伏見城帰城した。再建木幡山伏見城縄張踏襲したが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘呼ばれている北西部曲輪群とそれを取り巻く堀は放棄された。また石垣新たに築き直され天守台も本北西端から本丸北寄移動した再建され建物の瓦には豊臣家家紋桐紋使われていた。このころより大坂城移っていた大名屋敷伏見城戻ってきたが、関ヶ原の戦い直後城下町焼き払われており、跡地東西両軍大名与えられたと考えられている。 翌1603年慶長8年徳川家康は、伏見城征夷大将軍宣下を受ける。以後三代徳川家光まで伏見城将軍宣下式を行っている。慶長10年1605年3月徳川家康伏見城朝鮮使節会見し文禄・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮和議成立する同年御殿建設に伴い徳川家康も本丸から西の丸移り、更に二条城に移るが、本丸部分完成する同年8月20日には伏見城帰城する。新しくなった御殿徳川秀忠将軍宣下執り行われた。その後作事続けられたが、駿府城改築により、翌1606年慶長11年)頃には伏見城作事停止され器材屋敷駿府城運ばれていった家康駿府城移った後は、慶長12年松平定勝城代となり、また大番等による在番定番が行われた。 大坂の陣後、しばらくは二条城将軍参内時の宿舎伏見城居館用として利用され続けていたが、一国一城令主旨からも両城維持するのは困難とし、1619年元和5年)には伏見城廃城決まり翌年から城割り始まった元和9年1623年7月16日徳川家光将軍宣下実施されたが、「先年破壊残り殿閣いささか修飾して御座となす」(『徳川実紀』)とあり、本丸部分若干修復をし将軍宣下執り行われた。その後完全な廃城となった伏見城天守二条城に、また多く建物福山城淀城吸収されそれ以外にも全国各地移築された。 徳川家康征夷大将軍就任後江戸城伏見城行き来していたが、『城と秀吉』によると「在城期間を累計する伏見城のほうが多いのではなかろうか」とし、また近畿の城』では「江戸幕府初期のころ「伏見幕府といってよい」としており、初期段階徳川幕府に於ける伏見城重要性指摘している。 伏見城時代区分第1期第2期第3期第4期第5期豊臣秀吉隠居屋敷造営 豊臣秀吉指月の岡と向島築城 豊臣秀吉木幡山築城 徳川家康木幡山築城再築 徳川秀忠家光改修破却 1592年文禄元年)-1593年文禄2年1594年文禄3年)-1595年文禄4年1596年慶長元年)-1600年慶長5年1600年慶長5年)-1606年慶長11年1607年慶長12年)-1623年元和9年

※この「徳川家康再建時代」の解説は、「伏見城」の解説の一部です。
「徳川家康再建時代」を含む「伏見城」の記事については、「伏見城」の概要を参照ください。

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