徳川家康再建時代
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関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は翌慶長6年(1601年)3月に入城し、伏見城と二条城の再建を開始する。翌慶長7年(1602年)6月には藤堂高虎が普請奉行に起用され、同年末頃にはほぼ再建がなり、同年12月には伏見城に帰城した。再建は木幡山伏見城の縄張を踏襲したが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘と呼ばれている北西部の曲輪群とそれを取り巻く堀は放棄された。また石垣も新たに築き直され、天守台も本丸北西端から本丸内北寄に移動した。再建された建物の瓦には豊臣家の家紋、桐紋が使われていた。このころより大坂城に移っていた大名屋敷が伏見城に戻ってきたが、関ヶ原の戦い直後に城下町は焼き払われており、跡地が東西両軍の大名に与えられたと考えられている。 翌1603年(慶長8年)徳川家康は、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。慶長10年(1605年)3月、徳川家康は伏見城で朝鮮使節と会見し、文禄・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮と和議を成立する。同年御殿建設に伴い、徳川家康も本丸から西の丸に移り、更に二条城に移るが、本丸部分が完成する同年8月20日には伏見城に帰城する。新しくなった御殿で徳川秀忠の将軍宣下が執り行われた。その後も作事は続けられたが、駿府城の改築により、翌1606年(慶長11年)頃には伏見城の作事も停止され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれていった。家康が駿府城へ移った後は、慶長12年に松平定勝が城代となり、また大番等による在番や定番が行われた。 大坂の陣後、しばらくは二条城が将軍参内時の宿舎、伏見城が居館用として利用され続けていたが、一国一城令の主旨からも両城を維持するのは困難とし、1619年(元和5年)には伏見城の廃城が決まり、翌年から城割りが始まった。元和9年(1623年)7月16日、徳川家光の将軍宣下が実施されたが、「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」(『徳川実紀』)とあり、本丸部分に若干の修復をし将軍宣下が執り行われた。その後完全な廃城となった。伏見城の天守は二条城に、また多くの建物は福山城・淀城に吸収され、それ以外にも全国各地に移築された。 徳川家康は征夷大将軍就任後、江戸城と伏見城を行き来していたが、『城と秀吉』によると「在城期間を累計すると伏見城のほうが多いのではなかろうか」とし、また『近畿の城』では「江戸幕府も初期のころ「伏見幕府」といってよい」としており、初期段階の徳川幕府に於ける伏見城の重要性を指摘している。 伏見城の時代区分第1期第2期第3期第4期第5期豊臣秀吉の隠居屋敷の造営 豊臣秀吉の指月の岡と向島築城 豊臣秀吉の木幡山築城 徳川家康の木幡山築城再築 徳川秀忠、家光の改修・破却 1592年(文禄元年)-1593年(文禄2年) 1594年(文禄3年)-1595年(文禄4年) 1596年(慶長元年)-1600年(慶長5年) 1600年(慶長5年)-1606年(慶長11年) 1607年(慶長12年)-1623年(元和9年)
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