本多正純の時代とは? わかりやすく解説

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本多正純の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:05 UTC 版)

宇都宮藩」の記事における「本多正純の時代」の解説

奥平忠昌に代わって宇都宮入部したのは、下野小山藩33000石を領していた本多正純であり、155000石に大幅加増されての入部であった。正純は父本多正信とともに知恵袋参謀として家康側近侍り初期幕政牛耳った謀臣である。しかし武功皆無等しく、そのために父と同じよう武功派と呼ばれる戦場働き功臣妬まれていた。その正純が15万石上の大身となったため、多くの者は正純を恨んだ。特に千福祖母、すなわち秀忠の姉である亀姫こと加納御前は、長篠大手柄立てた奥平家より文治派の正純を大幅に加増して宇都宮置いたことが大いに不満で、秀忠抗議している。 正純は宇都宮藩内の検地行い城下町整備した。また宇都宮城防備強化将軍日光社参の便を良くするために、奥州街道大幅に整備した。さらに幕府意向に従って宇都宮藩藩庁宇都宮城縄張り拡張し、さらに改修加えてこれを近代城郭とした。 元和8年1622年4月家康七回忌のため秀忠宇都宮城4月14日宿泊七回忌無事に済ませたが、帰路には宇都宮通らず壬生岩槻通って江戸引き返した。この時、老中井上正就将軍宿泊御殿検分している。この秀忠宇都宮素通り理由は、加納御前秀忠に正純に不審ありと訴えたためであるらしい(『徳川実紀』)。また、かつて正信存命中の慶長19年1614年)、正純は当時幕府武功派として権勢高かった大久保忠隣改易しているが、忠隣の嫡子忠常の正室加納御前四女であった。忠常は改易3年前早世していたが、この正室との間に嫡子忠職がおり(つまり加納御前の孫)、改易連座して処分受けていた。奥平家古河移封とどまらずこうしたいきさつもあったため、加納御前の正純に対す怒り頂点達していた。一方で正純は、家康正信没後には江戸へ戻って老中として幕政中枢になおもとどまっていたが、土井利勝酒井忠世ら若い秀忠側近らと権勢めぐって対立し幕閣内で孤立しており、家康時代権勢徐々に失われつつあった。 同年出羽山形藩最上義俊お家騒動理由改易決まったため、正純は城受け渡し使者として山形向かった9月6日に正純は山形到着し出羽久保田藩佐竹家などに城受け渡し指示出している(『梅津政景日記』)。そして9月29日江戸から高木正次伊丹康勝山形来訪し10月1日に正純に対して改易出羽由利への配流沙汰言い渡された。皮肉にも、かつてキリシタン弾圧のため京都赴いていた際に使者がやって来て改易言い渡され大久保忠隣と全く同じ運命たどったのである改易の理由として、広島藩福島正則改易に関して宇都宮拝領問題宇都宮城普請に関して3条が罪になったという。その後功臣であることから5万5000石の知行与えられるところ、正純が拒否したため、秀忠激怒して出羽大沢1000石にまで減封され、さらに佐竹義宣預かりとなり出羽横手流された。一連の正純改易事件宇都宮城釣天井事件という。

※この「本多正純の時代」の解説は、「宇都宮藩」の解説の一部です。
「本多正純の時代」を含む「宇都宮藩」の記事については、「宇都宮藩」の概要を参照ください。

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