本多正純の時代
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奥平忠昌に代わって宇都宮に入部したのは、下野小山藩3万3000石を領していた本多正純であり、15万5000石に大幅加増されての入部であった。正純は父本多正信とともに知恵袋・参謀として家康の側近に侍り、初期幕政を牛耳った謀臣である。しかし武功は皆無に等しく、そのために父と同じように武功派と呼ばれる戦場働きの功臣に妬まれていた。その正純が15万石以上の大身となったため、多くの者は正純を恨んだ。特に千福の祖母、すなわち秀忠の姉である亀姫こと加納御前は、長篠で大手柄を立てた奥平家より文治派の正純を大幅に加増して宇都宮に置いたことが大いに不満で、秀忠に抗議している。 正純は宇都宮藩内の検地を行い、城下町を整備した。また宇都宮城防備の強化と将軍の日光社参の便を良くするために、奥州街道を大幅に整備した。さらに幕府の意向に従って宇都宮藩の藩庁・宇都宮城の縄張りを拡張し、さらに改修を加えてこれを近代城郭とした。 元和8年(1622年)4月、家康の七回忌のため秀忠は宇都宮城に4月14日に宿泊、七回忌を無事に済ませたが、帰路には宇都宮を通らず、壬生や岩槻を通って江戸に引き返した。この時、老中の井上正就が将軍宿泊御殿を検分している。この秀忠の宇都宮素通りの理由は、加納御前が秀忠に正純に不審ありと訴えたためであるらしい(『徳川実紀』)。また、かつて正信が存命中の慶長19年(1614年)、正純は当時幕府で武功派として権勢が高かった大久保忠隣を改易しているが、忠隣の嫡子忠常の正室は加納御前の四女であった。忠常は改易の3年前に早世していたが、この正室との間に嫡子忠職がおり(つまり加納御前の孫)、改易に連座して処分を受けていた。奥平家の古河移封にとどまらず、こうしたいきさつもあったため、加納御前の正純に対する怒りは頂点に達していた。一方で正純は、家康・正信の没後には江戸へ戻って老中として幕政の中枢になおもとどまっていたが、土井利勝や酒井忠世ら若い秀忠側近らと権勢をめぐって対立し、幕閣内で孤立しており、家康時代の権勢は徐々に失われつつあった。 同年、出羽山形藩の最上義俊がお家騒動を理由に改易と決まったため、正純は城受け渡しの使者として山形へ向かった。9月6日に正純は山形に到着し、出羽久保田藩の佐竹家などに城受け渡しの指示を出している(『梅津政景日記』)。そして9月29日、江戸から高木正次と伊丹康勝が山形に来訪し、10月1日に正純に対して改易と出羽由利への配流の沙汰が言い渡された。皮肉にも、かつてキリシタン弾圧のため京都へ赴いていた際に使者がやって来て改易を言い渡された大久保忠隣と全く同じ運命をたどったのである。改易の理由として、広島藩の福島正則の改易に関して、宇都宮拝領問題、宇都宮城普請に関しての3条が罪になったという。その後、功臣であることから5万5000石の知行が与えられるところ、正純が拒否したため、秀忠は激怒して出羽大沢1000石にまで減封され、さらに佐竹義宣預かりとなり出羽横手に流された。一連の正純改易事件を宇都宮城釣天井事件という。
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