愛知大学設立
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帰国した本間は書院大学の関係者を集め、1946年5月に新大学設立を決議した。旧陸軍施設を中心に校地予定地を探していたが、既に転用されているなどして難航する。そんな中、書院大学の神谷龍男教授から郷里の愛知県豊橋市・豊橋第一陸軍予備士官学校跡地を紹介され、横田忍豊橋市長と面談し、大学設立の協力を取り付けた。6月には新大学設立事務所を豊橋に設置した。新大学の学長には、当初本間が有望視されていたが、本間自身が「多くの青年学徒を戦地に送った」責任があるとして、固辞。東亜同文会の理事を務めていた枢密顧問官の林毅陸前慶應義塾総長に白羽の矢を立てた。就任の交渉には本間自身が出向き、「学生の将来に対する責任」を訴えて説得。この言葉で林の心は動かされ、承諾の返事が引き出されたという。 新大学の名前は、構想段階では「愛知人文大学」とされていたが、後に「愛知大学」となる。1946年11月15日に大学令による愛知大学の設立が認可。この時の文部大臣は一高・東大の同級生であった田中であった。なお、新大学設立に際しGHQから「東亜同文書院大学そのままの大学は認可しない」との条件が付けられ、本間は「新大学(愛知大学)は東亜同文書院大学とは無関係」との声明を出さざるをえなかった。教職員も新たに書院大学の関係者を採用することができなくなり、外地にあり同じく閉鎖を余儀なくされた京城帝国大学、台北帝国大学の関係者を集めることにより人員不足を克服した。 愛知大学において本間は理事兼教授に就任した。担当科目は民法。ところが、愛知大学設立間もなく、戦後廃止された大審院の代わりとして設置された最高裁判所の初代長官に就任した三淵が本間を最高裁の事務総長に指名する。この事態に愛知大学から小岩井・松坂佐一の両教授が上京し三淵と面談して翻意を促したが、三淵の熱意に押されて失敗する。「三淵門下でもっとも信頼され、また自分も三淵さんをこの上なく敬愛した」と評される本間が三淵の申し出を断れる筈もなく、1947年8月より初代事務総長に就任。愛知大学の事務は小岩井が引き継いだ。
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