愛知大学設立とは? わかりやすく解説

愛知大学設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:51 UTC 版)

本間喜一」の記事における「愛知大学設立」の解説

帰国した本間書院大学関係者集め1946年5月新大設立決議した旧陸軍施設中心に校地予定地を探していたが、既に転用されているなどして難航するそんな中書院大学神谷龍男教授から郷里愛知県豊橋市豊橋第一陸軍予備士官学校跡地紹介され横田豊橋市長と面談し大学設立協力取り付けた6月には新大設立事務所豊橋設置した新大学の学長には、当初本間が有望視されていたが、本間自身が「多く青年学徒戦地送った責任があるとして、固辞東亜同文会理事務めていた枢密顧問官林毅陸慶應義塾総長白羽の矢立てた就任交渉には本間自身出向き、「学生将来対す責任」を訴えて説得。この言葉の心は動かされ承諾返事引き出されたという。 新大学の名前は、構想段階では「愛知人文大学」とされていたが、後に「愛知大学」となる。1946年11月15日大学令による愛知大学設立認可。この時の文部大臣一高東大同級生であった田中であった。なお、新大設立際しGHQから「東亜同文書院大学そのまま大学認可しない」との条件付けられ本間は「新大学(愛知大学)は東亜同文書院大学とは無関係」との声明を出さざるをえなかった。教職員新たに書院大学関係者採用することができなくなり外地にあり同じく閉鎖余儀なくされた京城帝国大学台北帝国大学関係者集めることにより人員不足克服した愛知大学において本間理事教授就任した担当科目民法。ところが、愛知大学設立間もなく戦後廃止され大審院代わりとして設置され最高裁判所初代長官就任した三淵が本間最高裁事務総長指名する。この事態愛知大学から小岩井松坂佐一の両教授上京し三淵と面談し翻意促したが、三淵の熱意押され失敗する。「三淵門下でもっとも信頼され、また自分も三淵さんをこの上なく敬愛した」と評される本間が三淵の申し出断れる筈もなく、1947年8月より初代事務総長就任愛知大学事務小岩井引き継いだ

※この「愛知大学設立」の解説は、「本間喜一」の解説の一部です。
「愛知大学設立」を含む「本間喜一」の記事については、「本間喜一」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「愛知大学設立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「愛知大学設立」の関連用語

愛知大学設立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



愛知大学設立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの本間喜一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS