愛知新聞を創刊
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終戦直後の1945年12月25日、黒柳章、榊原金之助らが中心となって『東海新聞』が創刊された。1947年、戦前の新聞記者たちはさらなる地元新聞の発刊を企て、元新三河新聞社の工場長の自宅に集まった。たまたま居合わせた内田は請われるままに代表者にさせられ、同年8月、市内板屋町の仕舞屋で週刊新聞『三河タイムス』を創刊した。 1951年初頭、日刊紙への移行を計画し、一般から新紙名を募集。1952年5月10日、株式会社愛知新聞社を設立。新社屋を千賀康治のおいの千賀次良が持っていた旧康生町(現・康生通東1丁目)の土地に建てた。同年11月1日、『愛知新聞』第1号を発行した。続いて東海放送株式会社を設立した。1958年春、原水爆禁止岡崎地区協議会の副会長に就任。1961年、中部日本都市広告協会を設立。なお千賀次良は1965年10月2日に病死するまで愛知新聞社の取締役会長を務めた。 政治家に転身する前、内田は岡崎市長選挙に二度、選対の参謀として関わっている。1955年の市長選ではかつて秘書として仕えた千賀康治を支援した。千賀は現職の竹内京治に敗れ、翌1956年、都電にはねられ死亡した。それを境に旧幡豆郡を地盤にした中垣國男が岡崎に勢力をのばし、中垣に連なる県議の太田光二が1958年9月に翌年の市長選への出馬の構えを見せると、竹内の推薦母体である愛市連盟が結成された。愛市連盟の事務局は愛知新聞社本社に置かれた。原水協の活動を通じて、内田には社会党の支持を取り付けられるだろうという目算があった。竹内は「岡崎が中垣に乗っ取られていいのですか」と内田に詰め寄られ、4選出馬を決断した。どちらの選挙でも敗北を喫したが、細かな情報を駆使した内田の選挙手腕は注目を集めた。 1961年2月頃、ライバル会社である東海新聞社社長の榊原金之助が次期県議選への出馬を表明。若い商店主らによって内田を県議会に送らんとする空気が強まり、「八日会」なる団体が結成された。名前は永田安太郎の後援会「十五日会」にちなんで付けられた。 1962年10月に岡崎市は六ツ美町を編入。これに伴い、1963年の愛知県議会議員選挙・岡崎市選挙区は定数が3から4に増える。同年4月17日に行われた県議選に浦野幸男派(宏池会)からは内田のほか、現職の柴田彦四郎、浦野の書生で繊維会社社長の鈴木正雄の3人が立候補。また、中垣國男派(水曜会)からは現職の近藤春次のほか、前述の榊原金之助が立候補。7人の候補者が争う中、初出馬ながら1万8千票余りを得てトップ当選を果たした。「八日会」は正式に内田の後援会として発足し、初代会長には地元の素封家の堤敏正が就任した。 1967年、再選。
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