竹内京治とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 竹内京治の意味・解説 

竹内京治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 01:02 UTC 版)

竹内 京治(たけうち きょうじ、1887年明治20年)12月17日[1] - 1966年昭和41年)12月11日)は、日本政治家新聞記者。第10-12代岡崎市長(3期)、愛知県会議員(1期)、岡崎市会議員(2期)、東海市長会長、愛知県市長会長などを歴任した[2]


注釈

  1. ^ 竹内竹五郎は1911年(明治44年)1月に『岡崎朝報』を創刊した[8]。竹内京治の養父の名は書物によって「竹五郎」「武五郎」「五郎」等それぞれ異なるが、本稿では『岡崎市議会史 下巻』に依拠して[9]「竹五郎」とした。
  2. ^ 『三河新聞』廃刊後、1942年(昭和17年)9月1日に設立されたのが中部日本新聞社(現・中日新聞社)である。
  3. ^ 退任の挨拶で竹内は「私の最も苦心したのは愛知学芸大の誘致問題で、実に骨身を削る思いをした」と述べている[26]。竹内や太田光二の努力が実り、愛知学芸大学は1949年(昭和24年)、岡崎市明大寺町字西郷中38番地を本部として発足した[27]。明大寺町の同地には現在、分子科学研究所基礎生物学研究所生理学研究所の三つの研究所が建っている。
  4. ^ 事実、愛市連盟の本部事務局は康生通東の愛知新聞社本社に置かれた[36]
  5. ^ 声明書の主要部分を抜粋する。「三十年来同志として友人として公私の交りをして来た太田、竹内両氏の激突の結果、市政の将来に抜き難い禍根を残すことは躍進発展の好機を迎えている岡崎市にとって非常なる損失となることは明かであります。旧臘来数回に亘り折衝し、万策を尽して調整一本化のための努力を行って来ましたが、残念ながら竹内氏の一方的拒否に遭い所期の目的を達することが出来ず、市民の各位の期待に答え得なかったことは衷心より遺憾とするものであります。」[46]
  6. ^ 大竹庄二はこの年、市長選と同日に行われた市議会議員選挙に立候補し初当選した。1967年まで市議を2期務めた[47]岡崎医療刑務所の所長に請われ、1968年に同刑務所の篤志面接員となった。以後長年にわたり、受刑者の矯正教育や出所後の就職などの相談にのった[48]

出典

  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、242頁。
  2. ^ 『日本の歴代市長 第二巻』, p. 463.
  3. ^ 『全岡崎知名人士録』, p. 2.
  4. ^ 『新三河タイムス』1995年7月20日、1面、「故花井正八氏と豊田周辺 『よほど波長があうんですねぇ』 情念にたぎる思いと浦野父子」。
  5. ^ a b 東海新聞』1966年12月13日、1面、「竹内京治元市長死去 きょう密葬、20日市民葬執行」。
  6. ^ 『愛知新聞』1959年4月19日、1面、「そこが聞きたい 候補者見参 岡崎市長選」。
  7. ^ 『東海新聞』1958年10月26日。
  8. ^ 『東海新聞』1971年5月12日。
  9. ^ 『岡崎市議会史 下巻』岡崎市議会史編纂委員会、1992年10月22日、655頁。 
  10. ^ 福岡寿一編『めおと善哉』東海タイムズ社、1958年8月5日、1頁。 
  11. ^ 『岡崎市戦災復興誌』, p. 1177.
  12. ^ a b 『愛知新聞』1966年12月13日、1面、「竹内京治元市長死亡 岡崎市 二十日に市民葬」。
  13. ^ 市政だより おかざき No.459” (PDF). 岡崎市役所. p. 8 (1981年11月1日). 2020年3月5日閲覧。
  14. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 367頁。
  15. ^ 『東海タイムズ』1960年3月21日。
  16. ^ 『東海タイムズ』1960年5月23日。
  17. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 499頁。
  18. ^ a b 東海新聞』1958年4月11日、1面、「落花の城跡でクワ入れ式 舞あがる平和の鳩 復興完成と岡崎城地鎮祭」。
  19. ^ 『岡崎市戦災復興誌』, pp. 252, 290.
  20. ^ 愛知県議会史 第四巻』 295頁、307頁。
  21. ^ 愛知県議会史 第六巻』 304頁、857頁。
  22. ^ 『岡崎市戦災復興誌』, p. 347.
  23. ^ 榊原金之助ほか著、福岡寿一編『続・三河現代史』東海タイムズ社、1961年4月1日、109頁。 
  24. ^ a b 岡崎の選挙記録 - 岡崎市長選挙.
  25. ^ 小柳三樹三「三河太平記 89回」 『東海タイムズ』1964年2月10日、2面。
  26. ^ 『岡崎市戦災復興誌』, p. 259.
  27. ^ 『岡崎市戦災復興誌』, pp. 585–598.
  28. ^ a b 新編 岡崎市史 現代 5』 41頁。
  29. ^ 『三河知名人士録』, p. 272.
  30. ^ 中部日本新聞』1958年4月11日付朝刊、三河版、4面、「平和のシンボル 輝く〝復興碑〟 お城跡では盛大に地鎮祭」。
  31. ^ 『東海新聞』1958年8月30日、1面、「お城再建工事スタート 天守閣跡周辺は立入り禁止」。
  32. ^ 『東海新聞』1959年4月19日、2面。
  33. ^ 『東海新聞』1958年9月16日、1面、「太田光二氏、市長選へ踏切る 近く後援団体へ正式意志表示」。
  34. ^ 『東海タイムズ』1958年11月3日、1面、「岡崎市政 竹内―太田宿命の対立 骨肉相食む〝一騎打ち〟の真相」。
  35. ^ 小柳三樹三「三河太平記 146回」 『東海タイムズ』1966年3月1日、2面。
  36. ^ a b 『愛知新聞』1958年10月22日、1面、「竹内岡崎市長に推薦申入れ 愛市連盟準備委で会長に小柳氏」。
  37. ^ a b 『東海タイムズ』1959年2月2日、2面、「大竹庄二氏と〝激論〟 竹内市長〝三者勧告〟を蹴ること」。
  38. ^ 『全岡崎知名人士録』, p. 22.
  39. ^ 福岡寿一『三河人国記』月刊中京社、1954年1月31日、7374頁。 
  40. ^ 『愛知新聞』1958年10月26日、1面、「竹内氏、市長選に出馬を表明 市議会有志は調停に乗出す」。
  41. ^ 榊原金之助ほか著、福岡寿一編『続・三河現代史』東海タイムズ社、1961年4月1日、141頁。 
  42. ^ 『全岡崎知名人士録』, p. 30.
  43. ^ 朝日新聞』1980年7月24日付朝刊、13版、14面。
  44. ^ 『東海タイムズ』1959年8月3日、1面、「地方史の〝四十八人〟(29)」。
  45. ^ 『愛知新聞』1959年2月21日、1面、「市政の現状と将来考え 市長選出馬の決意変わらず 竹内市長、参院選推薦ことわる」。
  46. ^ 『東海新聞』1959年4月17日、1面、「五者調停、ついに実らず 竹内京治氏の一方的拒否で」。
  47. ^ 岡崎の選挙記録 - 岡崎市議会議員選挙.
  48. ^ 『中日新聞』1990年11月2日付朝刊、30面、「道一筋に輝く笑顔 大竹庄二さん(藍綬) 健康な限り続けたい」。
  49. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 234頁。
  50. ^ 福岡寿一『風塵』東海タイムズ社、1969年11月5日、184頁。


「竹内京治」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竹内京治」の関連用語

竹内京治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竹内京治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竹内京治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS