新聞社経営
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愛知県宝飯郡赤根村(現・豊川市御津町赤根)生まれ。トヨタ自動車工業会長を務めた花井正八は甥。幼少時代を男川村大字大平(現・岡崎市大平町)の薮田家で過ごした。1905年(明治38年)3月、東京中学校(現・東京高等学校)卒業。一年志願兵として騎兵第25連隊に入隊。除隊後、日刊新聞『岡崎朝報』初代社長の竹内竹五郎の娘と結婚、それとともに竹内家の養子となる。 1915年(大正4年)4月1日、『岡崎朝報』の社主となる。昭和初期には、民政党系の『三河日報』、中立系の『新三河』とならび政友会支持の論陣をはり、岡崎市における三紙鼎立時代をきずいた。1921年(大正10年)から1933年(昭和8年)までの13年間、岡崎朝報社は全三河オリンピック大会を主催し地域の文化育成にも努めた。なお岡田撫琴の『三河日報』は労働争議にまつわる傷害事件(いわゆる三河日報事件)がきっかけで労組が壊滅状態になり、1935年(昭和10年)2月に廃刊となった。社会主義運動に身を捧げた部下の榊原金之助が獄中で転向し、1935年(昭和10年)10月に刑を終えて復帰。やがて榊原は『岡崎朝報』の編集長となった。 1940年(昭和15年)10月30日、『新三河』は特高の勧告に応じて廃刊。しかし表面上は『岡崎朝報』への吸収合併という形をとり、11月1日付で『岡崎朝報』は『三河新聞』と改称した。1941年(昭和16年)12月13日に新聞事業令が公布され、一県一紙の国策により1942年(昭和17年)7月30日に『三河新聞』も廃刊となる。竹内は最後まで同紙の経営にあたった。
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