新聞社幹部として
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1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞』社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して、裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の1エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。1982年12月にソ連による執拗かつ周到な対日諜報活動・間接侵略(シャープパワー)が暴露されたレフチェンコ事件当時、首相官邸に赴いた際に自社の記者について後藤田正晴や中曽根康弘とやりあったという。1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員、1999年には日本新聞協会会長に就任した。 日本国民の世論の大多数が、日本国憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より、読売新聞は憲法第9条の改正を含む改憲キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた改憲論議の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が、反対を上回ることが多々見られるようになった。 1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の再販売価格維持制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や定価を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。 2005年、読売新聞グループ本社の会長に就任。2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。 盟友の中曽根を強引に引退させ、毎年靖国神社を参拝した小泉純一郎政権に対しては批判的であった。靖国神社に対する見解は後述。 自民党員および元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に2007年の自民党と民主党の大連立構想の黒幕であったと報じられている。小沢一郎は『朝日新聞』の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。 2007年(平成19年)10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、2010年(平成22年)11月25日に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている。2011年7月5日の判決では、原告の主張は一部認められたが損害賠償は棄却された。 『週刊文春』によると、渡邉は2004年(平成16年)に、不正な方法で運転免許証を更新し、道路交通法違反を犯したと報道されている。 2018年、死亡説が流布され、自らそれを打ち消した。
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