市長選に出馬
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1957年(昭和32年)11月2日、合併後各地区に設けられた後援団体「光会」の連合会結成大会が開かれる。 1958年(昭和33年)9月16日、『東海新聞』に「太田光二氏、市長選へ踏切る」とのスクープ記事が掲載される。「市長など性に合わない」としぶる太田を榊原金之助と鳥居茂市議が秘密裡に口説いたといわれ、側近らのほとんどにとっては寝耳に水であった。9月21日、光会連合会は緊急役員会を開き、満場一致で太田を次期市長選に推薦することを決議。 同年10月15日、内田喜久の発案により現職の竹内京治の推薦母体となる愛市連盟の結成準備委員会が開かれる。10月22日、愛市連盟の幹部らは市役所を訪れ、竹内に4選出馬を要請。10月25日、この事態を重く見た岡崎市議26名は「円満な話合いによって調整一本化を図るため居中調停の労を執りたい」と述べた声明書を発表するが、竹内は同日、市長選出馬を正式に表明した。 太田には桑原幹根愛知県知事、倉知桂太郎県議会議長、中垣國男(衆議院議員・自民党)、岡崎商工会議所会頭の田口宗平らが支援するほか、自民党愛知県連が推薦を決定した。一方、4選を狙う竹内には小林錡(衆議院議員・自民党)、太田一夫(同・社会党)、柴田栄(参議院議員・自民党・全国区)らがついたため、1959年(昭和34年)の岡崎市長選挙は4年前の市長選と並ぶ凄惨な争いとなった。社会党岡崎支部においては、執行部が独断的に竹内推薦を決めたとして反主流派(伊藤よし子派)が反発。同年3月20日に八田清市議ら党員21名が離党するという事態を招いた。市長選には学校法人清光学園創立者の本多由三郎も「石原清光」の名で立候補したが、事実上竹内と太田の一騎打ちであった。 愛市連盟は新聞、チラシ、ポスターなどで、徹底して太田の人格攻撃を行った。投票日の4月30日には、太田が消防関係者の親玉であることをとらえ、「呼べど答えぬ消防本部/火事をシリ目に選挙運動/市民の憤激頂点に達す」という見出しの怪文書を全市に配布した。太田陣営はただちにこれに応酬。「投票前夜の火事騒ぎ/消防活動は立派だった/ヒボウのデマ流す悪辣集団」と書かれた文書を印刷するという一幕もあった。接戦の末、太田が竹内を小差で下し初当選した。5月2日、第13代岡崎市長に就任。 ※当日有権者数:92,212人 最終投票率:91.89%(前回比:+0.55pts) 候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持太田光二 59 無所属 新 42,445票 50.96% 竹内京治 71 無所属 現 39,067票 46.91% 石原清光 63 無所属 新 1,053票 1.26% 加藤定一 無所属 新 724票 0.87% 1962年(昭和37年)10月15日、岡崎市は碧海郡六ツ美町を編入。 1963年(昭和38年)4月1日から5月10日にかけて「花と産業科学大博覧会」(通称:岡崎博)を開催。同年4月、無投票で再選。1964年(昭和39年)6月26日から1965年(昭和40年)7月9日まで全国市長会副会長を務めた。 1967年(昭和42年)4月、中野四郎の支援を受けた元議員秘書の原嶋亮二、日本共産党新人らを破り3選。市制50周年記念事業の一環として整備を進めていた岡崎市民会館が6月22日に完成。6月28日、3期12年にわたって竹内・太田市政を支えた助役の浅岡齋が退任。 1968年(昭和43年)6月27日、市内康生通西4丁目に総合レクリエーション施設「岡崎スポーツガーデン」を建てた。 1970年(昭和45年)4月29日、勲三等瑞宝章受章。同年12月の市議会定例会に、70歳以上の老人医療費を無料にする条例案を提出。同条例は翌1971年(昭和46年)4月に全国の各都市にさきがけて実施された。
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