広島市長選落選後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 09:15 UTC 版)
「渡辺忠雄 (政治家)」の記事における「広島市長選落選後」の解説
1959年(昭和34年)の広島市長選に出馬したが、今度は元職の浜井に3万票近くの差を付けられて落選。1963年(昭和38年)の広島市長選では浜井に6万票近い差で落選。1967年(昭和42年)にも広島市長選に出馬するも落選している。 また、第29回衆議院議員総選挙(1960年11月)にも広島県第1区に無所属で出馬したが落選している。 市長落選後の渡辺は弁護士に復職。80歳だった1979年(昭和54年)に中国新聞の取材に答えた時は、東区牛田に住居を置き、中区鉄砲町に弁護士事務所を構えていた。 新聞取材後まもなく、再婚。後妻との間には実子である直行がいる。。 1980年(昭和55年)5月6日14時35分(日本時間)、広島市民病院で尿毒症により死去。81歳没。 平和大通り。道幅を100mから50mに縮小することは頓挫したが、両側の緑地帯については渡辺の働きかけで集められた。 基町の中層アパート。広島市中央公園予定地の一部を住宅用地に転換して建てられた。 初代・広島市民球場。市長選の公約には、ナイター球場の建設もあった。
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