広島市長就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 09:15 UTC 版)
「渡辺忠雄 (政治家)」の記事における「広島市長就任」の解説
1955年(昭和30年)4月30日に行われた広島市長選に保守系候補(無所属)として出馬。現職の浜井信三、広島県医師会会長の松坂義正との三つ巴の戦いになった。渡辺は、出身地の山県郡友会や中小企業組合、旧軍人関係団体の支持を受けた。 1955年(昭和30年)5月1日に開票され、当時現職だった浜井にわずか1577票差で当選。本人も投票直後に敗戦を認めるほど、意外な当選だった。渡辺の当選劇には、当時の現職の収入役、市議会議長の池永清真の収賄による逮捕、さらには浜井自身も逮捕される噂が流れた影響もあったと言われた。 このときに掲げた選挙公約も派手なものであり、「100メートル道路を半分の50メートルにする」、「基町の中央公園に住宅を建てる」、「ナイター球場を作る」などであった。また、渡辺は「無理に不法建築の立ち退きはさせない」と言い、票を伸ばしたと浜井は見ている。 実際に広島市中央公園を縮小し基町のアパート群・初代・広島市民球場などは実現し、平和大通りの縮小は行われなかったものの、代わりに植樹事業につかう樹木の提供を呼びかけて約5,000本を集めた。 その他、広島護国神社復興・広島復興大博覧会開催・広島城復興、広島バスセンターの整備、道路の舗装区間の拡大などを在任中に行った。 在任中の1958年(昭和33年)に、「大広島計画」が構想されている。政府の受けも良く、旧債の返済3億円を就任から3年で完済。建設事業の認証が受けやすくなった。 市長当選の初登庁にはバスを使って話題になったり、在任中にはアメリカに広島復興大博覧会の宣伝にも出かけている。 当時行った施策の中には、東部清掃工場の建設の様に、渡辺が得票数が5,000票から6,000票減ったと回想するような、評判の悪い施策もあった。
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