市長辞職後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 04:31 UTC 版)
三島の辞職を受けて実施された市長選挙で、反対派は、候補者擁立が難航し、「守る会」が選挙に取り組むために作った政治団体「緑と子供を守る市民の会」の事務局長であった富野暉一郎が急遽出馬することとなった。11月11日に投票された市長選挙の投票率は、逗子市長選挙史上最高の74.81パーセントとなり、富野が三島を破って初当選した。 1987年、長洲知事による調停案の受け入れの是非を問う住民投票の実施が、市議会で否決されたのを受け、調停案の返上を主張する富野市長は、調停案の受け入れの是非を問うとして、市長を辞職した上で再び市長選挙に立候補した。三島は再び富野と市長選挙で争ったが、10月11日に投票された市長選挙は、投票率が前回をさらに上回る76.12パーセントとなり、三島は再び富野に破れ、富野が再選を果たした。 三島は2006年8月4日に死去し、9月に従五位が追贈された。
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