潘毓桂
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| 潘毓桂 | |
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『最新支那要人伝』(1941年)
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| プロフィール | |
| 出生: | 1884年(清光緒10年)[1][2] |
| 死去: | 1961年11月12日 |
| 出身地: | |
| 職業: | 官僚・政治家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 潘毓桂 |
| 簡体字: | 潘毓桂 |
| 拼音: | Pān Yùguì |
| ラテン字: | P'an Yü-kui |
| 和名表記: | はん いくけい |
| 発音転記: | パン ユーグイ |
潘 毓桂(はん いくけい)は、中華民国の官僚・政治家。字は燕生[1][2][3]。はじめは直隷派の陳光遠に属し、後に宋哲元の側近をつとめた。さらに中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となっている。なお、山口淑子(李香蘭)を義理の娘としていた。
事績
初期の活動
清末に日本へ留学し、早稲田大学を卒業したとされる。帰国後は民政部五品警官首席秘書、内外城警庁検事、国務院法制局参事、江蘇省督軍署政学参議を歴任する。1917年(民国6年)、直隷派の江西督軍陳光遠の配下となる。督軍公署秘書長、同軍法処処長、景徳鎮統税局局長を歴任した[1][2]。
1923年(民国12年)からは、蒙蔵院副総裁、国務院参議、津浦鉄路局副局長などに就いている。1935年(民国24年)、宋哲元が平津衛戍司令に任命されると、潘毓桂はその高等顧問となる。同年12月に国民政府行政院が冀察政務委員会を設立すると、政務処処長兼交通委員会委員となった[1][2]。
臨時政府での活動・失脚
1937年(民国26年)7月、潘毓桂は北平治安維持会常務委員、北平警察局局長に任命された。中華民国臨時政府成立後の1938年(民国27年)1月5日、河北省長に転じた高凌霨の後任として、潘は天津特別市市長に特任される[4]。同年4月27日に臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)[5]、6月6日に天津特別市工務局局長を[6]、それぞれ兼任した。
潘毓桂が天津特別市市長に抜擢された理由は、北平での「抗日反満分子」を鎮圧する「法官出身の凄腕」、「辣腕と迫力」を買われてのこととされる[1]。ところが潘は天津市の地元人士からの声望に乏しく、日本軍の天津特務機関からも意中の人物とされていなかった。そのため、次第に日本側の信任を得て台頭してきた津海関監督・温世珍に潘は市長の地位を脅かされるようになり、これと政争を繰り広げている。翌1939年(民国28年)になると、潘は天津特務機関長・柴山兼四郎(大佐)から辞職勧告を受けるまでに至ったとされる[7]。
様々な圧力に屈した潘毓桂は、同年3月24日、ついに天津特別市市長事務の代行を臨時政府行政委員会に要請、温世珍が市長代行となる[8]。4月25日、潘は病気を理由として市長を辞職[9][注 1]、温が後任の市長に正式任命された[10]。市長辞職後も、兼任していた市公署工務局局長には何故か留まっていたが、これも5月19日に辞職し[11]、臨時政府委員専任となっている。その後、潘は日本を一時訪問した。
華北政務委員会での活動
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、臨時政府委員の地位をそのまま引き継ぐかのように、潘毓桂は華北政務委員会委員に特派された[12][注 2]。なお、現職市長・温世珍の華北政務委員会委員兼任は何故か半年近く遅れ、9月12日にようやく発令された。しかし、潘が華北政務委員会で復権を果たすことは無かった。
1943年(民国32年)2月、華北政務委員会委員長が王揖唐から朱深に交替された際に、それまでの華北政務委員会委員の辞任及び改任が行われた。しかし、この際に潘毓桂は辞任・改任の委員に含まれておらず[13]、この時点までに華北政務委員会委員をすでに退任していたものと考えられる。同年6月、潘は華北河渠建設委員会委員に任命された[14][注 3]。
日本敗北後、潘毓桂は漢奸として逮捕、収監された。中華人民共和国成立後の1961年11月12日、上海の獄中で死去した。享年78。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 東亜問題調査会編(1941)、179-180頁。
- ^ a b c d e 徐主編(2007)、2555頁。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1447頁。
- ^ 臨時政府令、民国27年1月5日(『政府公報』第1号、民国27年1月17日、臨時政府行政委員会公報処、18頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第193号、民国27年4月27日(『政府公報』第15号、民国27年5月2日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第218号、民国27年6月6日(『政府公報』第21号、民国27年6月13日、臨時政府行政委員会公報処、3頁)。
- ^ 天津市河北区人民政府。
- ^ 臨時政府令、令字第372号、民国28年3月24日(『政府公報』第67号、民国28年3月26日、臨時政府行政委員会情報処第四科、2頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第392号、民国28年4月25日(『政府公報』第74号、民国28年5月1日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第393号、民国28年4月25日(『政府公報』第74号、民国28年5月1日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第415号、民国28年5月19日(『政府公報』第79号、民国28年5月26日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)。
- ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
- ^ 国民政府令、民国32年2月8日(『華北政務委員会公報』第191・192期、民国32年2月28日、国府1頁)。
- ^ 華北政務委員会令、会字第1312号、民国32年6月17日(『華北政務委員会公報』第220期、民国32年7月16日、本会5頁)。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 「潘毓桂出任天津偽市長的前前後後」 天津市河北区政務網(天津市河北区人民政府ホームページ)
- 「新発現并基本確認的河北区名人旧居(二)」 同上
- 『上海監獄志』大事記(上海地方志弁公室ホームページ)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
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