神戸市長辞職後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 21:11 UTC 版)
1920年(大正9年)、「二回まで重任したことすら過分だ」「米国の大統領でも3度は出ない」と3選を固辞し、2期の任期切れをもって市長の職を辞した。 同年、川崎総本店総務理事となり、東亜セメント等、関係諸会社重役を兼ね、日本無線電信、日本航空輸送の創立に参与。また神戸新聞社取締役の他、1925年神戸商工会議所会頭に就任、再選も果たした。村野工業理事の他、1924年、神戸市に女学校の不足を痛感し、神戸山手学習院(現・神戸山手女子中学校・高等学校)を開設、自ら初代校長、理事長に就任。同年、神戸ロータリークラブ創立に参加。1926年株式会社オリエンタルホテル創立で社長。1927年金融恐慌で川崎造船所(現・川崎重工業)が破綻すると、初代社長松方幸次郎の後を受け1928年川崎造船所と川崎汽船の社長に就任。川崎車両を分離させる等、再建に努力したが在任中の1932年に死去した。
※この「神戸市長辞職後」の解説は、「鹿島房次郎」の解説の一部です。
「神戸市長辞職後」を含む「鹿島房次郎」の記事については、「鹿島房次郎」の概要を参照ください。
- 神戸市長辞職後のページへのリンク