神戸市長時代とは? わかりやすく解説

神戸市長時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 21:11 UTC 版)

鹿島房次郎」の記事における「神戸市長時代」の解説

1910年明治43年2月28日突如辞任した第3神戸市長・水上浩躬の後任探し難航した際、対応を一任され市会議長坪田十郎要請を受け市長就任した鹿島市長となった当時神戸市重工業化が進み神戸港貿易港として成長し人口市制開始時(1889年明治22年))の約3倍にあたるおよそ40万人増加するなど、新興都市として伸び盛り時期迎えつつあった。さらに就任後1914年大正3年)に第一次世界大戦勃発する景気好転し1916年大正5年以降神戸市予算額は急速に増大していった。 鹿島第一に取り組んだのは神戸電気鉄道に関する問題であった。まず、市長就任直後1910年4月開業したものの資金難から市街電車二期工事着手できずにいた同社に対して補助を行うと、次いで1913年大正2年)に電灯電力供給事業参入した同社神戸電灯との合併承認し、さらに1917年大正6年)に路線拡張速やかに行わない同社滝川儀作仲裁仰ぎつつ買収市街電車市営化した神戸市電)。市営化後、市街電車路線飛躍的に拡大し都市の発展拡大促した教育分野では、学区廃止断行した。これは市内各区任せていた小学校運営を市に一本化し、区の財政状況児童教育環境左右される状況解消するためのもので、神戸教育史上画期的といわれる、他の都市先んじて行われた政策であった鹿島はさらに300万円公債発行して小学校増設乗り出した鹿島そのほか人口増加対応するために千苅大規模な水源設け給水力の強化図り、また貿易量が増大し続け神戸港設備防災力を強化すべく、第一期築港工事1907年明治40年) - 1922年大正11年))の完成待たずして1919年大正8年)に第二期築港工事着手した築港工事においては築港公債直接募集行い資金調達経営手腕発揮した1918年大正7年)に起った米騒動影響神戸市にも及び、大手商社鈴木商店焼き打ちされた。事件の要因としては生活困窮者多さ指摘され市会において対応が議題となった際、鹿島公設市場設け食料品日用品安く供給することを提案し実施移した

※この「神戸市長時代」の解説は、「鹿島房次郎」の解説の一部です。
「神戸市長時代」を含む「鹿島房次郎」の記事については、「鹿島房次郎」の概要を参照ください。

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