神戸市長時代
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1910年(明治43年)2月28日、突如辞任した第3代神戸市長・水上浩躬の後任探しが難航した際、対応を一任された市会議長の坪田十郎の要請を受け市長に就任した。鹿島が市長となった当時、神戸市は重工業化が進み神戸港が貿易港として成長し、人口が市制開始時(1889年(明治22年))の約3倍にあたるおよそ40万人に増加するなど、新興都市として伸び盛りの時期を迎えつつあった。さらに就任後の1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると景気が好転し、1916年(大正5年)以降神戸市の予算額は急速に増大していった。 鹿島が第一に取り組んだのは神戸電気鉄道に関する問題であった。まず、市長就任直後の1910年4月に開業したものの資金難から市街電車の二期線工事に着手できずにいた同社に対して補助を行うと、次いで1913年(大正2年)に電灯電力供給事業に参入した同社と神戸電灯との合併を承認し、さらに1917年(大正6年)に路線拡張を速やかに行わない同社を滝川儀作の仲裁を仰ぎつつ買収、市街電車を市営化した(神戸市電)。市営化後、市街電車の路線は飛躍的に拡大し、都市の発展拡大を促した。 教育分野では、学区の廃止を断行した。これは市内の各区に任せていた小学校の運営を市に一本化し、区の財政状況に児童の教育環境が左右される状況を解消するためのもので、神戸教育史上画期的といわれる、他の都市に先んじて行われた政策であった。鹿島はさらに300万円の公債を発行して小学校増設に乗り出した。 鹿島はそのほか、人口増加に対応するために千苅に大規模な水源を設け給水力の強化を図り、また貿易量が増大し続ける神戸港の設備・防災力を強化すべく、第一期築港工事(1907年(明治40年) - 1922年(大正11年))の完成を待たずして1919年(大正8年)に第二期築港工事に着手した。築港工事においては、築港公債の直接募集を行い、資金調達に経営手腕を発揮した。 1918年(大正7年)に起った米騒動の影響は神戸市にも及び、大手商社鈴木商店が焼き打ちされた。事件の要因としては生活困窮者の多さが指摘され、市会において対応が議題となった際、鹿島は公設市場を設け食料品や日用品を安く供給することを提案し、実施に移した。
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