神戸市長に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 06:32 UTC 版)
1945年8月11日、中井は突然辞任した野田文一郎の後を受け、神戸市長に就任した(当時は市長選ではなく市議会の推薦に基づいて市長が選出された)。当時神戸は空襲が相次いでおり、「第二の故郷、神戸で死ねれば男子の本懐」という覚悟で引き受けたが、8月13日に村正を手に初登庁し「ともに市民を守って死のう」と呼びかけた矢先の8月15日に玉音放送においてポツダム宣言の受諾が表明された。中井は新たに「市民とともに生き抜こう」と訓示し、戦後の復興、食糧の確保、進駐軍対策に取り組んだ。「闇市も市民の食糧の役に立っている」という見解から闇市を厳しく取り締まらないよう指示したところ、取り締まりを厳しく行った大阪よりも多くの物資が神戸に集まった。さらに「統制は国民のためにある。その統制のために国民が生活できないとなれば、法の存在自体が目的に反している」と訓示し、食糧統制に背く形で市長公認の買い出し部隊を編成し、日本各地へ派遣した。 1946年、5月に「五大都市(大阪市、神戸市、京都市、名古屋市、横浜市)に特別市制を実現する」という決議が国会でなされたことを受け、中井は神戸を特別市にするべく、神戸市と周辺の市町村との合併を推進する運動を展開。神戸市を特別市とすることはできなかったものの、現在の神戸市北区・西区が誕生するきっかけを作った。 中井の下で神戸市外務課長を務め進駐軍との折衝に当たった原忠明は中井の特筆すべき功績として、神戸市の復興のために復興本部を設置し、近隣市町村との合併による市域拡大、神戸港の拡張、高速道路の建設、神戸高速鉄道、神戸市営地下鉄の設立などを内容とする復興基本計画を打ち出し、その後の発展の礎を築いたことを挙げている。 中井が「置き土産」と称し生涯自慢したとされるのが、神戸市立外事専門学校(現・神戸市外国語大学)の設立である。文部省は進駐軍の指令に基づき、「戦災都市における高等教育機関の新設は当分の間認めない」という方針を打ち出していたが、進駐軍・文部省と折衝を重ねた末、1946年3月に設立の認可を得、同年6月に開校することに成功した。
※この「神戸市長に就任」の解説は、「中井一夫」の解説の一部です。
「神戸市長に就任」を含む「中井一夫」の記事については、「中井一夫」の概要を参照ください。
- 神戸市長に就任のページへのリンク