神戸市長辞任後
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市長辞任後は再び教育界に身を投じ、県市教育長を経て1908年(明治41年)に山口高等商業学校(後の山口大学)校長、1911年(明治44年)に一橋高等商業学校(後の一橋大学)第16代校長に就任した。当時、1909年(明治42年)の東京高等商業学校専攻部廃止令が、1908年(明治41年)、1909年(明治42年)の「申酉事件」により、専攻部を4年間存続させることとなり、その期限が迫っていた。坪野は渋沢栄一らと共に奔走を続け、1912年(明治45年)に、その廃止令の撤回に成功した。1914年(大正3年)8月、坪野は病気のため校長を辞職した。 校長辞職後は再び千葉県安房郡北条町に滞在し、かつての英語学校を再開させた。1919年(大正8年)には東京小石川に「安房育英会」を設立し、安房出身の在京者を援助した。1923年(大正12年)の関東大震災後は神戸市に転居し、1925年(大正14年)、65歳で死去した。坪野の名言として、「土地に惚れ 女房に惚れて その上に 仕事に惚れる ひとは仕合」が残っている。墓所は館山市の慈恩院。
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