逗子市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 04:31 UTC 版)
富野が初当選した時点で、逗子市議会は建設容認派が過半数を占めており、富野市長は市議会とことあるごとに衝突することとなった。1985年秋以降は、建設反対派が市議会の解散を、建設容認派が市長の解職をそれぞれ求めて署名運動を展開する「リコール合戦」の様相となり、12月には双方が本請求に要する法定数を超える署名を市選挙管理委員会に提出した。この結果、1986年2月に双方の住民投票が行なわれ、市議会は解散賛成が上回り、市長は解職反対が上回って、4月に市議会議員選挙が実施されることとなった。しかし、選挙後の市議会でも建設容認派が過半数を占めたため、市議会と市長の対立は続くこととなった。 1987年には、長洲一二神奈川県知事による調停案の受け入れの是非を問う住民投票の実施が、市議会で否決されたのを受け、調停案の返上を主張していた富野は市長を辞職し、調停案の受け入れの是非を問うとして、再び市長選挙に立候補した。10月11日に投票された市長選挙は、投票率が前回をさらに上回る76.12パーセントとなり、富野は再び三島を破って再選された。 1988年10月の市長選挙では、対立候補として「逗子を愛する市民の会」会長の伊奈正が出馬したが、結果は富野の三選となった。その間も住宅建設に向けた工事は強行され、1989年以降、逗子市はこれに対抗する法廷闘争に取り組んだ。また市議会との対立も続いていたが、1990年3月の市議会議員選挙で、初めて建設反対派が市議会の過半数を占めるに至った。 1992年の市長選挙を前に、7月31日の記者会見で、富野は不出馬を表明した。
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