池子問題ヘの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 04:31 UTC 版)
1982年に、在日米軍施設である池子弾薬庫跡地への住宅建設計画が公表され、これに反対する住民運動が起こると、富野はこの運動に当初から加わり、「池子米軍住宅建設に反対して自然と子供を守る会」(通称「守る会」)の中心メンバーのひとりとなり、後には「守る会」が選挙に取り組むために作った政治団体「緑と子供を守る市民の会」の事務局長となった。 1984年、「守る会」が建設受け入れを容認した当時の三島虎好市長へのリコール運動を行ない、成立確実と目される情勢となった中で、三島市長は、市長選挙で住宅建設受け入れの是非を問うとして、自ら辞職した。反対派は、候補者擁立が難航し、「市民の会」事務局長であった富野が急遽出馬することとなった。 11月11日に投票された市長選挙は、逗子市長選挙史上空前の74.81パーセントとなり、富野は三島前市長を破って初当選した。
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