逗子市長時代
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1998年、鎌倉市議会議員を任期途中で辞職し、逗子市長選挙に無所属で出馬。現職市長ら3人を破り、全国最年少市長として初当選した。鎌倉市長選挙にしなかった理由について、逗子市の方が小回りが利いて、逗子発のモデル事業が展開しやすいからと話している。 就任時は31歳(36歳まで全国最年少の市長であった)。就任した翌月に市内で実施された成人式には当時20歳の妻が参加し、「夫が市長、妻が新成人」とのニュースが全国報道された。 就任直後に全国で初めて市長交際費を廃止。また、全国の市としては初めて教育長を全国公募で誕生させた。全国に先駆けて公立学校全校で少人数授業を採用した。さらに、文化教育ゾーン整備事業に市民選択方式を導入(約 100 億円から約 67 億円に事業費を圧縮)し、新図書館、文化ホール、温水プール、逗子小学校の建て替えに順次取り組んだ。なお、逗子市の図書館はスウェーデンのハンゲ市の図書館を参考にデザインされている。このほか、市道のバリアフリー化を進めた(歩道の交差点の段差解消整備率を 13.6%から3年かけて 100%に)。 2002年、市長就任4年目で逗子市を情報公開など全国自治体透明度ランキング1位(日経調べ、市長就任時の256位から全国の672自治体中1位)にする。同年、全国の中でも開発規制の大変厳しい逗子市まちづくり条例を制定(そのほか、逗子市景観条例、逗子市みどり条例を制定。市長在任中はいつ開発されてもおかしくなかった緑地東京ドームのグラウンド約15個分を保全した)。また、逗子海岸の花火大会が市長によるカウントダウンでスタートし、花火を音楽と一体化させたり、グランドフィナーレに集中投資するようになったのは2002年からである(モナコのモンテカルロの国際花火大会を参考に)。同年、逗子市長に再選。 2003年8月、逗子市の在日米軍池子住宅地区への横浜市域側への住宅追加建設案が打ち出される。日本政府・神奈川県・逗子市による過去の三者合意に反し、市民にその是非を問うために市長を辞職し、出直し市長選への出馬。9月14日の市長選で3回目の当選を果たした。この池子米軍家族住宅の追加建設の問題では防衛施設庁を相手に裁判で争ったが逗子市は敗訴した。しかし、2018年になって国は計画を断念することとなった。 2004年、市長就任6年目で逗子市を行政評価など全国自治体効率化・活性化度ランキング1位にする(日経調べ、全国の683自治体中1位。7年間で入札改革、行財政改革などで約 55 億 5,000 万円の経費削減)。あわせて全国透明度ランキングでも退任するまで3回連続で全国1位を達成した。なお、2004年には市民らからの開示請求に「公文書は存在しない」と市が回答した場合、情報公開審査委員が必要があると判断すれば市に新たに文書を作るよう求められる情報公開条例の改正を行った。また、同年、ポルトガルのナザレ市と国際友好都市提携を結んだ。 2005年、逗子海岸にランドマークとなる太陽の季節記念碑の建立を発案、尽力し、11月に除幕式が行われた。 2006年4月から映画専門大学院大学で客員教授を務め、国政への転身のため、2006年12月の市長選挙には出馬せず任期満了のため退任。
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