伊藤よし子
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伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1991年3月24日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(2期)。
注釈
- ^ 初めて会った時のことをよし子は次のように回想する。「その日、伊藤は『われわれは、歴史の歯車の一つになって、この世の中を、真面目に働く人のために、プロレタリアートのために、住みよい社会にしなければならぬ。それには、社会主義社会を建設することだ。そのためわれわれは捨石になるのだ』と、熱情をこめて説いた。私はそれを正しいことだと思った。正しいと思ったことをやらないのは卑怯だ。たといどのような弾圧や困難があろうとも、と考えた。私は単純だった。しかし、いまでもその単純さが間違っていたとは思わない」[4]
- ^ 当初は親の考えに従うものだと考え、一度は岐阜県多治見町に嫁ぐ予定であった。以下はよし子の回想。「私も一面社会主義運動などという大それた考えをもっていたくせに、結婚という問題には単純で、子供っぽい考えしかしていなくって、その多治見方面の縁談も、相手がどういう人かということも考えずに、ただ仲人口通り、陶器の窯屋をやっていて、ちょっとしたその地方の資産家の一人息子だという話で、結婚したら小遣いをためて、運動のための資金を送ることができれば、それも一つの生き方ではないか位に考えていたのだから、恐れ入った無知さだ」[4]
- ^ 伊藤好道の死に際し、トヨタ自動車工業社長の石田退三は多額の香典をよし子に渡した。そのお礼によし子が出向くと石田は「自民党は悪いことばかりしている。西尾(注・西尾末広)は自民党の左と同じだ。将来は、好道さんのような人に日本の政治をしてもらいたかったのに残念だ。後継ぎは、あなたなら職業的にやれる」と言ったという[8]。
- ^ 1969年の総選挙において党の統一候補となった太田一夫であるが、岡崎市、安城市、西尾市、額田町、幸田町などの地区で票が伸び悩み[14]、次点で落選した。
出典
- ^ 福岡寿一『権勢に付属せず』東海タイムズ社、1983年10月1日、36頁。
- ^ 福岡寿一編『最後の人―本多鋼治回想―』東海タイムズ社、1965年12月5日、99頁。
- ^ a b 『全岡崎知名人士録』, p. 12.
- ^ a b c d e 『三河現代史』, pp. 57–67.
- ^ a b 『東海新聞』1957年7月13日、1面、「亡夫好道氏の遺志継いで衆院選出馬を決意した伊藤よし子さん」。
- ^ 『東海新聞』1958年4月30日。
- ^ 衆議院会議録情報 第025回国会 本会議 第17号
- ^ a b c 中日新聞社会部編『あいちの政治史』中日新聞本社、1981年10月29日、151-153頁、293-294頁頁。
- ^ 『中部日本新聞』1958年5月24日付朝刊、三河版、4面、「三河で初の婦人代議士 伊藤さんを囲んで」。
- ^ 『東海新聞』1958年5月10日、1面、「総選挙戦陣めぐり 気負いたつ好道直参の猛者 第四区 伊藤よし子候補(新社)」。
- ^ 『中部日本新聞』1960年11月3日付朝刊、三河版、「選挙事務所めぐり 伊藤よし子候補 四区・社会前」。
- ^ 『東海タイムズ』1967年2月1日、2面。
- ^ 『東海タイムズ』1967年2月11日、2面、「トヨタ労組への頼りすぎ? 落選した伊藤さんの〝自己批判〟から」。
- ^ 太田一夫「敗軍の将兵を語る」 『東海タイムズ』1970年2月21日。
- ^ 『中日新聞』1991年3月25日付夕刊、13面。
[続きの解説]
「伊藤よし子」の続きの解説一覧
- 1 伊藤よし子とは
- 2 伊藤よし子の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
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