愛知大学の学長に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:51 UTC 版)
本間が愛大の学長に就任して2年後の1952年5月、愛大豊橋校舎内に無断で侵入した制服警察官2名を捕縛したことで学生7名が逮捕された。これに対し本間をはじめとした愛大教職員・学生が検察・警察へ猛抗議。「大学の自治か、警察権か」を巡り大論争が巻き起こった。同じ年の東大ポポロ事件、早稲田大学事件に続く「愛知大学事件(愛大事件)」の発生である。本間は直後に弁護士登録をして学生の弁護人となった。2か月後の6月10日には衆議院行政監察特別委員会に証人として名古屋地方検察庁の安井栄三検事正と共に出席している。この中で本間は学生を「教育者として自分の教え子に対する気持は三親等内の親族以上」と表現している。愛大事件が終結するのは最高裁で上告が棄却され、「有罪、但し刑の免除」の判決が確定する1973年である。 本間の職務は愛大事件の対応も加わると多忙を極め、1955年には小岩井に学長・理事長の職を譲ることとなった。しかし、小岩井は1957年ごろから体調が悪化し、その後も療養しながら職務を続けていたが1959年2月19日に膵臓癌のために死去した。本間は小岩井の後任として同年4月、急遽学長に復帰することになる。 1963年1月、折からの三八豪雪により愛知大学山岳部のメンバー13人が遭難するという事件が起きる(愛知大学山岳部薬師岳遭難事故)。捜索は難航を極めたが、山岳部員が避難していると思われた山小屋(太郎小屋)に朝日新聞のヘリコプターが着陸を強行し、「来た、見た、いなかった」「太郎小屋に人影なし」と号外を出したことから生存が絶望的であることが明らかになる。実際に、3月から5月にかけて11遺体、10月に2遺体が発見された。本間は、「道義的責任」をとり4月に学長を辞任した。
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