本遺跡の位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 10:47 UTC 版)
本遺跡の東側には、弥生前期前半の東郷登リ立遺跡がある。この遺跡の住人は、前期後半には台地上の田熊石畑遺跡に本拠を移し、中期前半には墳墓に青銅器を副葬することのできる有力者層が出現していたとみられる。このように、同一地域における共同体の成長の様子がうかがえる点で本遺跡は貴重である。 本遺跡では、北部九州に特徴的な甕棺墓はみられない。甕棺墓は、本遺跡の西方の古賀市域ではわずかにみられるが、古賀市内を流れる青柳川を境に、それ以東には甕棺墓はみられず、ここに文化圏の境界がみられる。本遺跡は甕棺墓ではない墳墓に多数の青銅器が副葬されている点でも注目される。出土した武器形青銅器は細形を主体としつつ中細形を交えており、山陰や瀬戸内西部との関連が想定される。出土土器も東の響灘方面と西の玄界灘方面の双方の特色がみられ、本遺跡が東西文化の接点に位置することがわかる。
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