オランダによる来航の予告
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「黒船来航」の記事における「オランダによる来航の予告」の解説
1852年7月21日(嘉永5年6月5日)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」(幕末出島未公開文書 として保存される)を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺にあるアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。 さらに、6月25日付のオランダ領東インド総督バン・トゥイストからの長崎奉行宛の親書(『大尊君長崎御奉行様』)を提出したが、そこにはアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎の5か所の商人に限る」など合計10項目にわたる、いわゆる通商条約素案が示されていた。また、1844年の親書のあとも開国されなかったため国王は失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響がおよびかねないなどの懸念を表していた。 老中首座阿部正弘は、夏ごろには溜間詰の譜代大名にこれらを回覧した。海岸防禦御用掛(海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答を得た。また、長崎奉行もオランダ人は信用できないとしたため(以前にオランダ風説書でイギリスの香港総督ジョン・バウリングの渡航が予告されたがそれはなく、すべての情報が正しいわけではなかった)、幕府の対応は三浦半島の防備を強化するために川越藩・彦根藩の兵を増やした程度であった。加えて、幕府内でもこの情報は奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力などには伝えられていなかった。他方、外様の島津斉彬には年末までに口頭でこの情報が伝えられたようであり、斉彬は翌年のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡航以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。 なお、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡(1852年7月2日付)は、クルティウスが日本に向けジャワを出発したあとにバン・トゥイストの手元に届いたため、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した1853年(嘉永6年)提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は通商関係を結ぶことが目的の平和的なものであると述べている。
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