オランダによる来航の予告とは? わかりやすく解説

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オランダによる来航の予告

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 20:27 UTC 版)

黒船来航」の記事における「オランダによる来航の予告」の解説

1852年7月21日嘉永5年6月5日)、オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウス長崎奉行に「別段風説書」(幕末出島未公開文書 として保存される)を提出した。そこには、アメリカ日本との条約締結求めており、そのために艦隊派遣することが記載されており、中国周辺にあるアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに司令官オーリックからペリーに代わったこと、また艦隊陸戦用の兵士兵器搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。 さらに、6月25日付のオランダ領東インド総督バン・トゥイストからの長崎奉行宛の親書(『大尊長崎御奉行様』)を提出したが、そこにはアメリカ使節派遣対処するオランダ推奨案として「長崎港での通商許し長崎駐在公使受け入れ商館建築を許す。外国人との交易江戸、京、大坂、堺、長崎の5か所の商人に限る」など合計10項目にわたる、いわゆる通商条約素案示されていた。また、1844年親書のあとも開国されなかったため国王失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響がおよびかねないなどの懸念表していた。 老中首座阿部正弘は、夏ごろには溜間詰の譜代大名にこれらを回覧した海岸防禦御用掛海防掛)にも意見聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答得たまた、長崎奉行オランダ人信用できないしたため以前オランダ風説書イギリス香港総督ジョン・バウリング渡航予告されたがそれはなく、すべての情報正しいわけではなかった)、幕府の対応三浦半島防備強化するために川越藩彦根藩の兵を増やした程度であった加えて幕府内でもこの情報奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航予想される浦賀与力などには伝えられていなかった。他方外様島津斉彬には年末までに口頭でこの情報伝えられたようであり、斉彬は翌年アメリカ海軍東インド艦隊琉球渡航以降動静阿部正弘報告し両者危機感持った幕府内では少数派であった。 なお、アメリカ政府ペリー日本派遣決めると、オランダヘーグ駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ通商交渉使節派遣とその平和的な目的を、オランダ政府日本通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡1852年7月2日付)は、クルティウス日本に向けジャワ出発したあとにバン・トゥイストの手元に届いたため、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリー来航した1853年嘉永6年提出別段風説書では、ペリー派遣目的通商関係を結ぶことが目的平和的なのである述べている。

※この「オランダによる来航の予告」の解説は、「黒船来航」の解説の一部です。
「オランダによる来航の予告」を含む「黒船来航」の記事については、「黒船来航」の概要を参照ください。

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