三月一日昼戦に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:04 UTC 版)
「スラバヤ沖海戦」の記事における「三月一日昼戦に至る経緯」の解説
2月28日朝、スラバヤ港に停泊していたオランダ病院船のオプテンノールはデ・ロイテル、ジャワ、コルテノールの生存者救助を命じられ、同港を出港した。コルテノール沈没海域では生存者を発見できず、続いて蘭軍巡洋艦沈没地点へ向かおうとした。同時刻、第五戦隊、第二水雷戦隊は主隊(足柄、妙高、雷、曙)と合同、損傷した朝雲はボルネオ島バリクパパンに回航された。また田中二水戦司令官は航続距離の短い吹雪型駆逐艦(潮、漣)を燃料補給のため同島バンジェルマシンに回航させ、山風と江風を第五戦隊部隊に復帰させた。昼過ぎには第一根拠地隊から軽巡鬼怒、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)が輸送船団43隻に合流した。これに対し連合軍は急降下爆撃機10による空襲を実施、徳島丸が浸水・擱座、じょほーる丸命中弾により死傷者150名という被害を出す。午後3時前後、オプテンノールは『2隻の駆逐艦』に臨検された。日本側記録によると村雨(もしくは夕立)がオプテンノールを臨検している。天津風に引き渡されたオプテンノールはバウエアン島の仮泊地に一時停泊するよう命じられた。なお原為一(天津風艦長)の手記では、天津風によるオプテンノールの拿捕は26日となっている。3月1日0235、輸送船団はジャワ島クラガン泊地に進入、これを襲撃した連合軍魚雷艇3隻の攻撃を春雨が撃退した。0400、第一次上陸部隊が上陸を果たす。 順調にジャワ島攻略作戦を実施する日本艦隊に対し、スラバヤに帰投した連合軍艦艇は惨憺たる有様だった。無事だった米駆逐艦4隻は魚雷を撃ち尽し、補給も出来ない状態で実質戦闘不能。英重巡エクセターは応急修理でなんとか23ktまで出せるようになったものの、本格的な修理が必要な状態であった。従って戦闘に堪え得るのは、アメリカ駆逐艦ポープ(機関故障で残留)、イギリス駆逐艦エンカウンター(コルテノール生存者を後送)、オランダ駆逐艦ヴィテ・デ・ヴィット(エクセターを護衛して到着)の3隻のみである。ポープは魚雷を満載していたがエンカウンターは魚雷の補給ができなかった。残存艦隊にとって最大の問題は、日本軍輸送船団の撃滅ではなく「どうやってジャワ海から脱出するか」になっていた。 連合軍海軍司令部は、米駆逐艦4隻はバリ海峡を抜けオーストラリアへ回航、エクセターは修理のためセイロン島へ回航、この護衛に戦闘可能な3隻の駆逐艦を随伴させることに決め、2月28日、スラバヤ出港命令を出した。第58駆逐隊司令官T・H・ビンフォード中佐は命令によりポープをエクセターの護衛に残すと、東に向った。しかし、ここで損傷したエクセターをどうやってインド洋に脱出させるかが問題となった。バリ海峡は深度が浅いためエクセターの航行には向かなかった。後はロンボク海峡かスンダ海峡を突破する2通りのパターンがあったが、先に起きたバリ島沖海戦により日本軍は既にバリ島を抑えていると判断した司令部は、スンダ海峡突破を命令した。しかし実際はロンボク海峡には日本軍は殆ど居らず、むしろスンダ海峡を固めていたのであるが、連合軍は空中偵察を行おうともしなかった。またエクセターも戦闘機ブルースターF2Aバッファロー1機を搭載していたが、最後の戦闘で使用される事はなかった。 2月28日午後6時、夕焼けの中を英重巡エクセター(速力16ノット)は駆逐艦ポープ、エンカウンターを従えて出港した。ヴィテ・デ・ヴィットは艦長が乗員に半舷上陸の許可を出していたため出港に間に合わなかった。一方、バタビアに退避していたアメリカの重巡洋艦ヒューストン、オーストラリアの軽巡洋艦パース、オランダの駆逐艦エヴェルトセンもエクセターと同時刻にバタビアを出港、西進してスンダ海峡を目指した。だが3月1日午前0時ごろにジャワ島西部上陸作戦中の日本軍輸送船団と遭遇、第三護衛隊(指揮官/第五水雷戦隊司令官原顕三郎海軍少将)との戦闘によりヒューストンとパースは撃沈され、エヴェルトセンも座礁して失われた(バタビア沖海戦)。
※この「三月一日昼戦に至る経緯」の解説は、「スラバヤ沖海戦」の解説の一部です。
「三月一日昼戦に至る経緯」を含む「スラバヤ沖海戦」の記事については、「スラバヤ沖海戦」の概要を参照ください。
- 三月一日昼戦に至る経緯のページへのリンク