三月一日昼戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:04 UTC 版)
以下の戦いを、連合軍側は第二次ジャワ海海戦(en:Second Battle of the Java Sea)と呼称している。日本軍側はスラバヤ沖海戦の一部「スラバヤ沖(第二次)海戦」と分類している。 3月1日午前4時、前述のように輸送船2隻が損害を受けるも、日本軍はクラガン泊地への敵前上陸に無事成功した。同時に航空偵察により、損傷した連合軍艦艇の動きを探っている。この時点で日本軍は、第一護衛隊(第四水雷戦隊)がクラガン泊地外方、第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊)は泊地北東側、第四潜水戦隊旗艦・軽巡鬼怒は泊地北西側、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)はクラガン北方海面、主隊(足柄、妙高)、6駆小隊(雷、電)、曙(第7駆逐隊)は哨戒行動中だった。 同時刻、バウエアン島近海でエクセターは敵らしきものを発見し、これを反転回避する。これは日本軍第五戦隊部隊であった。この時日本軍はエクセターに気づかず、そのまま遠ざかっていった。しばらくしてエクセターは再反転すると西進を始めた。また日本軍別働隊でも、日本軍偵察機が報告した病院船オプテンノール護送のため、曙が艦隊から分離した。曙は『時津風からオプテンノール護送任務を引き継げ』と命じられていたという。 1103、クラガン泊地沖を哨戒していた第五戦隊部隊4隻は距離28km先にエクセター隊を発見する。既に第五戦隊部隊は残弾が底をつきかけており、已む無く高木少将は蘭印艦隊司令長官高橋伊望中将の重巡2隻(足柄、妙高)に応援を要請すると共に弾着観測機を射出し、敵艦隊に触接させた。エクセターは戦闘を避けるため煙幕を展開しながら北西に転針し、戦域から離脱を図った。1127、第五戦隊部隊は足柄と妙高の到着を待って追撃を開始した。 午前11時40分、エクセターは前方左、距離31,000mに新たな敵艦を発見した。同時刻、曙はエクセターを病院船オプテンノールと誤認し、停止命令を出した。イギリス軍重巡洋艦は14-18kmで砲撃した。第五戦隊もエクセターが艦首方向に射撃をしていたことを記録している。1140-1144分、曙は『(1140発、曙)敵らしき巡洋艦1、駆逐艦2見ゆ、我より方位120度』『我敵巡と交戦中』と報告し、救援を求める。第三艦隊は曙に対し、敵艦隊を誘致・拘束するよう命じた。 エクセターは曙が水平線の向こうに逃走したことで砲撃を停止した。やがて左舷に新たな日本艦隊が出現、これは高木少将からの連絡を受け、戦場に急行していた高橋中将率いる主隊(足柄、妙高、雷)の別働部隊であった。エンカウンターに乗艦していたサムエル・フォール卿(当時中尉)は、まずイギリス艦隊の右前方に駆逐艦4隻が出現、続いて左前方に最上型重巡洋艦2隻が出現(妙高型重巡洋艦を誤認)、最後に左舷後方に最上型重巡洋艦2隻(これも妙高型の誤認)が出現したと証言している。 エクセターは距離23000mで砲撃を開始した。足柄、妙高も応戦すべく、弾着観測のため零式水上偵察機を射出した。足柄、妙高は右砲戦を開始したが、2隻の弾着は非常に悪く、初弾斉射はエクセターから1000m離れ、次斉射は2000m離れた海面に着弾したという。逆にエクセターが足柄を夾叉する光景も見られた。だが、エクセターは数の上で不利であり東方への逃走を試みた。これを援護すべくエンカウンター、ポープが別働隊とエクセターの間に割って入り、1200前後に煙幕を展張した。煙幕の展開は効果的で、那智、羽黒はエクセターを見失う。状況を打破すべく、別働隊は曙、雷がエクセターに対して突撃をかけ、距離12,000mで砲撃を始めた。足柄と妙高はエクセターに酸素魚雷を発射したが、少なくとも魚雷2本が自爆し、全魚雷が命中しなかった。逆に第五戦隊部隊の方向へ魚雷が向かったので、那智、羽黒が回避する場面も見られた。 東方への逃走を図るエクセター、エンカウンター、ポープはスコールの中に飛び込んだ。足柄はスコールのため射撃を中止した程である。しかし、エクセターは損傷のため無理をしても23ノットしか出せなかった。一方、日本艦隊は全艦が30kt以上の速力を発揮可能であった。短い嵐が去った時、エンカウンターは右舷9000に駆逐艦隊、エクセターの左舷18000mに"最上型巡洋艦"4隻、右舷後方の水平線上に"那智級巡洋艦"2隻を確認している。英艦隊は包囲されていた。 この絶望的な状況下においてフォール卿は「自分は生来楽天的な性格であったため、何とか日本艦隊の包囲網を抜けて脱出できると信じていました。方位盤の横で測的士官と冗談を言い続けていました。」と語っている。 1224、那智、羽黒が距離25kmでエクセターに対し射撃を開始した。エクセターも反撃し、那智の周辺に水柱が上がる。日本軍は英軍艦隊を包囲し、集中砲撃を浴びせた。午後12時30分、エンカウンターは山風、江風の砲撃により被弾し、舵故障を起こして速度が低下した。さらに那智、羽黒の方向に艦首を向けたため、第五戦隊は魚雷発射と誤認して回避運動を行っている。エンカウンターの士官によれば、主砲弾をほぼ撃ちつくしたところ、砲撃によりオイルポンプが破損して航行不能になったという。 1240分頃、第十一航空戦隊(水上機母艦瑞穂)より、エクセター爆撃のため観測機11機を送るという連絡があった。日本艦隊は距離17kmにてエクセターに対し射撃を再開する。同時に魚雷戦を開始し、1250分ごろに那智が4本、羽黒が4本、山風が2本、江風が4本を発射した。すると、日本艦隊とエクセターの間に幅5-6m、高さ70-80mという巨大な水柱があがった。 この時、フォール卿の回想では「我々は日本潜水艦の雷撃を避けるためにジグザグ航行をしておりました。(中略)艦隊は変針を繰り返し、33ノットの高速で走り、対潜警戒と回避行動を繰り返しました。さらに、『エンカウンター』は『エクセター』の周りに煙幕展張を行い、日本側の砲撃をそらそうとしました。しかも、日本軍の包囲網から『エクセター』を突破させようとして、『ポープ』と共に日本艦隊に4000ヤードまで接近し、魚雷発射の擬似運動を行いました。この時だけは日本艦隊が大きくループを描いて回避運動を行いました。この時、包囲網に隙間が生じましたが、僅かの間でした。このため、『エクセター』は包囲網から脱出できなかったのです。」となっていた。 だが日本軍の魚雷が自爆しても、エクセターの命運は尽きようとしていた。20cm砲弾1発がまたもエクセターの缶室に命中し、火災が発生した。1254、動力を全て失ったエクセターは航行不能となり、主砲も動かなくなる。エクセターの艦長O・L・ゴードン大佐は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めた。エクセター総員退去と前後して駆逐艦の雷がエクセターに肉薄して魚雷を発射し、一本がエクセターの右舷に命中。続いて足柄、妙高も砲撃を開始した、止めを刺されたエクセターは1330に右舷に転覆して沈没した。この時、妙高の偵察機がエクセターの被雷・沈没を写真撮影した。この写真は写真週報第215号に掲載された。大本営海軍報道部は、エクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を討ったと宣伝している。足柄、シュペー、エレクトラ、エンカウンターはかつてジョージ6世戴冠記念観艦式において一堂に会したことのある艦だった。 なおも日本軍は残ったエンカウンター、ポープの追撃を行った。羽黒、那智に至っては高角砲も用いて駆逐艦2隻を砲撃する。まず舵の故障を起こして速度の低下していたエンカウンターが狙われた。エンカウンターは集中砲火を浴び、完全に戦闘不能となった。この時の事をフォール卿は「『エンカウンター』は、砲弾を撃ち尽くした直後に日本艦隊の砲撃を受けました。その結果、宙に放り投げられる感覚がしました。」と語っている。降伏を進言する士官もいたが、モーガン艦長は交戦旗をおろすなと命令。モーガン艦長を含めて乗組員の殆どが脱出、エンカウンターは戦死者7名と共に1335、沈没した。ポープはスコールに逃げ込み、日本艦隊の追撃から離脱することに成功する。燃料が尽きかけていた第五戦隊部隊は第三艦隊の命令により、午後1時53分にポープの追撃を主隊(足柄、妙高)に任せて戦場を離脱した。 ポープはロンボク海峡からオーストラリアに脱出しようと試みるが、妙高偵察機から逃れることができずにいた。ポープはボルネオ島南岸に沿って全速で東進していたが、1505、カリマタ海峡を南下中だった第四航空戦隊(軽空母龍驤)から発進した九七式艦上攻撃機6機(合計250kg爆弾6発、60kg爆弾24発装備)が来襲する。命中はしなかったものの左舷に落ちた至近弾により船腹に大穴が開き、左舷推進軸が捻じ曲がって使用不能となった。爆撃を受けたポープは回避運動により浸水が酷くなり、遂には艦尾が沈下しポープの艦長W・C・プリン中佐は艦を諦めて総員を退去させ、ポープには爆薬を仕掛けて自沈させることにした。 全員が退去し終わった直後、主隊(足柄、妙高、雷、電)が接近してきて、航行不能のポープに砲撃を始めた。六斉射目で遂に一弾がポープに命中、1530、ポープは大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいった。また妙高の偵察機は、戦闘詳報とは違った光景を見た。艦隊型駆逐艦が航行不能になったポープに距離1000mまで接近し、魚雷3本を発射。全弾が外れ、その日本軍駆逐艦はさらに2本を発射、ようやく1本が命中し、ポープは爆沈したという。漂流したポープの乗員は3日後、1隻の日本駆逐艦に救助された。 3月1日昼戦における弾薬消耗数は20cm砲(足柄、妙高)1171発、20cm砲(那智、羽黒)288発、12.7cm砲(足柄)14発、12.7cm砲(雷)279発、魚雷(那智、羽黒、足柄、妙高)24本、魚雷(雷、山風、江風)11本。主砲残弾は、那智が主砲1門あたり7発(定数1門につき200発)・魚雷4本(定数24本)、羽黒も主砲1門あたり19発・魚雷4本であった。合戦後、那智の主砲砲身は熱により塗装が剥げていたという。 一方、オーストラリアに離脱を図った米駆逐艦4隻は、バリ海峡突破に成功していた。3月1日午前二時ごろ、バリ海峡西岸スレスレを航行していた米駆逐艦隊は第21駆逐隊(子日、若葉、初霜)、測量艦筑紫に発見され、第21駆逐隊は距離4,500で火蓋を切った。しかし、魚雷を持っていない米駆逐艦隊は戦闘するつもりは毛頭無かった。会敵した場合に備えて十分に缶圧を上げてあった米駆逐艦隊は、直ちに最大戦速に速度を上げると猛スピードで第21駆逐隊を振り切り、バリ海峡を突破したのである。そして全艦無事にポートダーウィンに入港した。
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