零戦一一型(A6M2a)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 13:41 UTC 版)
「零式艦上戦闘機の派生型」の記事における「零戦一一型(A6M2a)」の解説
3号機以降は1・2号機に間に合わなかった栄一二型を搭載しており、その試作3号機から8号機を含めた合計64機が製作された。3翅プロペラを装備しているが、着艦フックは装備されていない。 昭和15年7月、当時未採用だった本機の内、9号機からの計40機が、漢口基地に防空戦闘機として配備される事となり、現地において残された問題を解決した同月に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されるが、昭和17年の類別変更により一般的に知られている「一一型」に変更となっている。 漢口基地に配備された一一型は、当初の目的だった基地防空用ではなく重慶へ爆撃を行っていた爆撃機の援護機として活躍、昭和15年9月13日に重慶上空で初空戦を行い、日本側の記録ではI-15とI-16で構成された中華民国軍戦闘機27機を零戦13機が無損失で全機撃墜したという伝説的戦果を報じている(ただし実際の中華民国軍機はI-15・25機とI-16・9機の計34機で、被弾・被撃墜あわせて24機だった)。この頃、中華民国軍で軍事顧問を務めていたアメリカ陸軍のクレア・リー・シェンノートは零戦の脅威にいち早く気づいて本国にその能力に関する報告を送っていたが、「日本にそれほど優秀な戦闘機を作れる技術があるはずがない」としてほとんど相手にされなかったと言われている(但し、太平洋戦争中盤以降に零戦を苦しめたサッチ・ウィーブは、アメリカ海軍のサッチ少佐が開戦前にシェンノートのレポートを読んで感じた「日本軍新型戦闘機の性能がこのレポートの半分でもあれば、アメリカ海軍の戦闘機では対抗しがたい」という危機感から考案されている)。
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