日本のDC-3生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 07:18 UTC 版)
「ダグラス DC-3」の記事における「日本のDC-3生産」の解説
日本では中島飛行機が1935年(昭和10年)からDC-2をライセンス生産し、日本航空輸送などで用いられ優秀機として高い評価を得ていた。ゆえに後継型DC-3への注目も早かった。日本海軍は三井物産にダグラス社からDC-3の製造ライセンスを取得させ、実際の生産は1937年(昭和12年)に設立された昭和飛行機工業に委ねることとした。 昭和飛行機では、当初少数の機体をノックダウン方式で生産、その後完全に国産化した。完全国産化にあたっては、アメリカ本国のDC-3がアメリカ流にヤード・ポンド法のインチ単位の設計図で作られていたため、既に工業界がメートル法に移行していた日本では設計図のメートル法換算を行う必要があった。このため、アメリカ本国製のオリジナルDC-3と、昭和飛行機で国産化されたDC-3とでは、厳密には随所で部品の寸法が異なっている。 エンジンは三菱の「金星」に変更され、日本海軍から零式輸送機(L2D2)として、大東亜戦争における日米開戦からわずか1年前の1940年(昭和15年)に制式採用された。零式輸送機は、一〇〇式輸送機(MC輸送機)と比べ最高速度・巡航速度で大きく劣るものの、一方では搭載量では勝るなど性能は比較的優秀であった。また零式輸送機は、エンジン換装によりカタログデータ上ではC-47を一部上回っていた(この零式輸送機について「DC-3のデッドコピー」という説も流布しているが、実際には上記の通り正式なライセンス生産に出自を発している)。太平洋戦争中期からは中島飛行機も一時生産を行った。昭和飛行機と中島飛行機によって、1945年(昭和20年)までに合計486機が製造された。
※この「日本のDC-3生産」の解説は、「ダグラス DC-3」の解説の一部です。
「日本のDC-3生産」を含む「ダグラス DC-3」の記事については、「ダグラス DC-3」の概要を参照ください。
- 日本のDC-3生産のページへのリンク