徳川熙とは? わかりやすく解説

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徳川熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/01 08:11 UTC 版)

徳川 熙
生誕 1916年2月15日
死没 (1943-07-12) 1943年7月12日(27歳没)
オーストラリアソロモン諸島クラ湾
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1938 - 1943
最終階級 海軍少佐
墓所 谷中霊園
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徳川 熙(とくがわ ひろむ[1]1916年大正5年)2月15日 - 1943年昭和18年)7月12日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少佐位階従五位勲等勲五等功級功五級

父は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の九男で男爵徳川誠。母は男爵・名和長憲の娘・霽子(さえこ)。妻は会津松平家第12代当主・松平保男の五女・順子(よりこ)。

生涯

呂一〇一潜(1943年)

1916年大正5年)2月15日男爵徳川誠の長男として生まれた。学習院中等科を経て、1938年昭和13年)に海軍兵学校65期を、187人中186番の席次で卒業。同期生には、九軍神の一人岩佐直治、戦後海将となる石隈辰彦らがいる。太平洋戦争中期の1943年(昭和18年)7月12日、潜水艦呂101先任将校(水雷長)として戦死した。27歳没。

戦死状況[2]

煕はクラ湾夜戦が行われた直後、のちに「潜水艦の神様」[3]と異名をとった艦長・折田善次指揮のもとクラ湾アメリカ軍上陸地点に潜入した。夜間、充電のため浮上し煕は見張員2名とともに艦橋にあったが、アメリカ軍駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)のレーダー射撃を受け煕は被弾した。煕は急速潜航を指示し、同艦は無事であったが、艦内に収容された煕は既に戦死していた(見張員2名も戦死)。煕の遺骸は折田らによってラバウルで荼毘に付された。墓所は谷中霊園

栄典

脚注

  1. ^ 霞会館[1996: 157]
  2. ^ 『艦長たちの太平洋戦争』「武運長久」
  3. ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』「月明の出撃」

参考文献




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