徳川生物学研究所
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徳川生物学研究所(とくがわせいぶつがくけんきゅうじょ、略称:徳研)は、1917年(大正6年)に生物学の研究奨励を目的として、尾張徳川家第19代当主の徳川義親侯爵により設立された私立の生物学研究所。1914年9月に麻布富士見町の自邸内に設置された植物学研究室に由来し、1918年5月に東京府荏原郡平塚村小山(現・品川区武蔵小山)に開所、1932年(昭和7年)に東京府東京市豊島区目白に移転した。戦後の研究所長・田宮博らによるクロレラの大量培養研究で知られる。1970年(昭和45年)に閉鎖され、研究所はヤクルト本社に譲渡された。[1]
- ^ この記事の主な出典は、香山 (2015)、中村 & 増田 (1996)、科学朝日 (1991, pp. 195–201)および徳研 (1925)。
- ^ a b c 香山 2015, p. 31.
- ^ a b 科学朝日 1991, p. 195.
- ^ 小田部 1988, p. 28.
- ^ 1916(大正5)年6月15日付『読売新聞』に「義親侯の生物学研究所設立‐遠からず計画実現の決心」と題した記事が掲載された(香山 2015, pp. 31, 39)
- ^ 「洗足丸子街道に接し、省線五反田駅を距る西へ約20町 目黒蒲田電車線の小山停車場の東南数町に在り」(徳研 1925。片仮名・旧字体・漢数字は修正した)。
- ^ a b c d 徳研 1925.
- ^ 科学朝日 (1991, p. 195)では、1918年に完成、としている。
- ^ 小田部 1988, p. 195同書では、「1914年9月」に武蔵小山に研究所が設立された、としている。
- ^ 香山 (2015, p. 31)では1918年4月に開所、としている。
- ^ なお、名古屋市大曽根で尾張徳川家が明倫中学校附属博物館として運営していた明倫博物館は、1917年11月に、当時建設中だった徳川生物学研究所での事業に注力することを理由の1つとして、明倫中学校と併せて愛知県に譲渡されることになり、1919年4月に譲渡された(香山 2015, pp. 30–31)。
- ^ 服部は旧・尾張藩の出身で、徳川の生物学科入学を世話した(科学朝日 1991, p. 194)。
- ^ a b c d e 科学朝日 1991, p. 196.
- ^ a b c 中村 & 増田 1996, p. 89.
- ^ 1991年現在の黎明会本部右手奥(科学朝日 1991, p. 198)
- ^ a b c 科学朝日 1991, p. 198.
- ^ a b 中村 & 増田 (1996, p. 89)、田宮博ほか(1970)からの引用として。
- ^ 小田部 1988, p. 209.
- ^ 徳川 1963, p. 146.
- ^ a b c 科学朝日 1991, p. 200.
- ^ 小田部 1988, pp. 28–29.
- ^ 小田部 1988, p. 29.
- ^ 科学朝日 1991, p. 199.
- ^ 科学朝日 (1991, p. 198)。(編注)同書では邦文3編、英文2編の合計5編としているが、邦文で4編が確認できる。
- ^ 科学朝日 1991, pp. 198–199.
- ^ 日本光合成学会 (2015年). “同調培養(法)”. 日本光合成協会. 2016年9月22日閲覧。
- ^ 科学朝日 1991, pp. 200–201.
- 1 徳川生物学研究所とは
- 2 徳川生物学研究所の概要
- 3 脚注
- 徳川生物学研究所のページへのリンク