洲崎球場誕生秘話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 09:53 UTC 版)
プロ野球のリーグ戦がスタートした1936年は大東京軍の首脳の間に専用球場 を持とうという考えがあり、東京市城東区洲崎にあった東京瓦斯の資材置場が候補となった。東京瓦斯にその旨を伝えたところ、「(当時社会人野球の強豪である)自チームと対戦してくれれば」という条件で承諾された。大東京軍にとっては開幕前のオープン戦4試合目。試合は8回まで7-6で大東京軍がリードしていたが、ここから9点を取られて逆転負け。球団理事の鈴木龍二は激怒し、その場で監督の永井武雄を解任した。公式戦で1試合も指揮を取らずに監督を辞任したのはこの時の永井と、1965年の蔭山和夫(南海ホークス・就任4日後に急死)、1976年のレオ・ドローチャー(太平洋クラブライオンズ・契約を結ぶも病気のため来日できず)の3人しかいない。大東京軍はこの試合の審判員だった小西得郎が11月に監督に就任するまで、内野手の伊藤勝三が監督を兼任した。なお永井は解任から2年後、日中戦争に従軍し戦死しており、鈴木は後の回想録の中でこの解任を悔やんだと言う。「監督」としては実際の職業野球の公式戦では指揮は執れずに終わったが、イーグルスで選手兼任監督のまま出征して戦死した寺内一隆と共に「鎮魂の碑」に名前が刻まれている。 完成した洲崎球場はその年の東京巨人軍と大阪タイガースの年度優勝決定戦の舞台となりその名を知られるようになったものの、海抜の低い埋立地であったため満潮になるとグラウンドに海水が入るという不具合が生じ、さらに翌1937年に後楽園球場が完成したこともあり、プロ野球開催は年々減少していった。
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