ミニット・メンとは? わかりやすく解説

ミニットメン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/27 03:29 UTC 版)

ミニットメン
出身地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州
ロサンゼルス サンペドロ
ジャンル ミクスチャー・ロック
ポストパンク
ポスト・ハードコア
パンク・ロック
オルタナティヴ・ロック
活動期間 1980年 - 1985年
レーベル SSTレコード
ニュー・アライアンス・レコード
メンバー D・ブーン (ボーカルギター
マイク・ワット (ベース
ジョージ・ハーレー (ドラムス

ミニットメン (Minutemen) は、1980年アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスサンペドロにて結成されたロックバンド。5枚のアルバムと数枚のEPをリリースし、精力的にライブ活動も行っていたが、1985年、ボーカルであるD・ブーンの死により解散した。

メンバー

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第89位。
  • ジョージ・ハーレー - George Hurley (1958年9月4日 - ) - ドラムス担当。

旧メンバー

  • フランク・トンシェ - Frank Tonche - ドラムス担当。

来歴

D・ブーンとマイク・ワットは13歳の頃に出会い、すぐに意気投合、お互いに音楽や芸術の話をし合う仲であった。その後、2人と同じ高校に通っていたジョージ・ハーレーとマーティン・タンブロビッチの4人でリアクショナリーズを結成。

1980年1月、リアクショナリーズ解散後、D・ブーンとマイク・ワットによりミニットメンが結成された。2人は元々ジョージ・ハーレーをドラムス担当として考えていたが、彼はヘイ・タクシー!というバンドに既に活動していたため、フランク・トンシェをドラムス担当メンバーに加えた。しかし、パンク・ロックの観客に嫌気が差し脱退。同年6月、ヘイ・タクシー!を脱退したジョージ・ハーレーがドラムス担当として加入した。初ライブはブラック・フラッグオープニングアクトであった。

12月、ブラック・フラッグギター担当であり、リーダーでもあるグレッグ・ギンの主催するSSTレコードより1st7インチEP『パラノイド・タイム』をリリース。1981年11月、1stLP『ザ・パンチ・ライン』をリリース。その後も精力的にライブツアーを続けながら作品を立て続けに発表した。

R.E.M.とのツアー、及び5thLP『スリー・ウェイ・タイ (フォー・ラスト)』のリリースも決まり、パンク・ロックシーン外のファンも獲得しつつあった1985年12月22日、自動車事故によりD・ブーンは他界、バンドは解散した。

D・ブーンの死に伴い音楽を続ける情熱を失っていたマイクとジョージを勇気付けたのはミニットメンのファンでもあったエド・クロフォードであった。3人は1987年にファイアホースを結成。同バンドは1994年に解散したが、その後もマイクとジョージはソロ活動や他のバンドにゲスト的に参加し、精力的に音楽活動を続けている。なお、マイク・ワットは再結成したザ・ストゥージズのベース担当として、また清水ひろたかあらきゆうこ、ネルスクライン(ウィルコ)らと「brother's sister's daughter」、ジョージ・ハーレーはレッド・クレイオラのドラムス担当として活動している。

作品

アルバム

  • The Punch Line (1981年)
  • What Makes a Man Start Fires? (1983年)
  • The Politics of Time (1984年)
  • Double Nickels on the Dime (1984年)
    • 収録曲「コロナ」は『ジャッカス』のテーマ曲に起用された。
  • 3-Way Tie (For Last) (1985年)

EP

  • Paranoid Time (1980年)
  • Joy (1981年)
  • Bean-Spill (1982年)
  • Buzz or Howl Under the Influence of Heat (1983年)
  • Tour-Spiel (1984年)
  • Project: Mersh (1985年)
  • Minuteflag (1985年) - ブラック・フラッグとの共作

コンピレーション

  • My First Bells (1985年)
  • Ballot Result (1986年)

映像作品

  • We Jam Econo (2005年) - ドキュメンタリーDVD。字幕付の国内盤もリリースされた。

ミニット・メン (1956年-1959年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/24 04:51 UTC 版)

アメリカ空軍のアクロバットチーム」の記事における「ミニット・メン (1956年-1959年)」の解説

1953年コロラド州バックレー・フィールドのコロラド州空軍第140航空団120戦闘飛行隊で、ディスプレイチームの編成が3機のF-80戦闘機によって開始され1956年末には5機のF-80C戦闘機によりアメリカ合衆国州空軍の公式ディスプレイチームとして編成完結したチーム名のミニット・メンとは、アメリカ独立戦争時の民兵を指す言葉である。 1958年チーム機材F-86F戦闘機更新され新機材での初の展示飛行フロリダ州ジャクソンビル海軍航空基地実施した同年6月7日オハイオ州ライト・パターソン空軍基地演技中にスロット役の4番機制御不能となり、墜落した墜落した場所小さな町の中だったが、機とともに墜落し死亡した操縦士ジョン・T・フェリエ大尉以外に死傷者発生しなかった。アクシデント発生した当時十分な高度があったにもかかわらず大尉脱出しなかったことに関し大尉はあえて脱出せずに機体コントロールして地上被害最小限食い止めようしたもの判断され、その英雄的行動対し殊勲飛行十字章授与された。 1959年7月10日チーム最後展示飛行コロラド州グランド・ジャンクション行い解散したチームは、その短い活動期間のうちにアメリカ合衆国47州のほか、中央アメリカ諸国でも展示飛行実施した

※この「ミニット・メン (1956年-1959年)」の解説は、「アメリカ空軍のアクロバットチーム」の解説の一部です。
「ミニット・メン (1956年-1959年)」を含む「アメリカ空軍のアクロバットチーム」の記事については、「アメリカ空軍のアクロバットチーム」の概要を参照ください。

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