セーラム【Salem】
セーラム
セイラム
セーラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 08:49 UTC 版)
「ウィンストン・セーラム」の記事における「セーラム」の解説
1753年1月、モラヴィア兄弟団の司祭オーガスト・ゴットリーブ・スパンゲンバーグと慈善事業家コーネリアス・ヴァン・レイアはマディ・クリークの3つの分岐点を入植の地に選び、ニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵のオーストリアの先祖の地に因みdie Wachau(ラテン語のワコビア)と名付けた。ワコビア銀行は創業地であるこの地に因み名付けられた。後に第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレットより99,000エーカー(400km2)の土地を購入した。 1753年11月17日、後にベサバラとなる地に最初の入植者が到着。この町は急速な成長にも関わらず主要な植民地とはならなかった。1759年、何人かの植民は近くのベサニアに土地を拡げた。最終的に多くの人々が新しい町に住みやすい土地を見付けた。 選ばれた町が故ツィンツェンドルフ伯爵により選ばれていたセーラム(ヘブライ語で『平和』を意味するShalomから)と名付けられた。1766年1月6日、建築のための初の伐採が行なわれた。現在セーラム・スクエアと呼ばれる中心地の周りに集まった信徒たちの公共の建物ができ、セーラムは典型的モラヴィア信徒植民地となった。教会、未婚の教会員や修道女の家などは全て市の所有であった。1848年には教会会議により、北米モラヴィア兄弟団は南北の2管区に分けられ、南部管区の本部がセーラムに置かれた。長年この地には信者のみが住むことを許可されていたが南北戦争により解消された。植民地時代の当時の建物の多くはオールド・セーラムに移転し再建された。セーラム・スクエアと1772年から信徒の墓地であるゴッズ・エーカーは毎年イースターの朝に行なわれる世界的に有名なモラヴィア信徒の早朝礼拝の地である。この礼拝は市内全てのモラヴィア教会により支持されており、毎年何千人もの信者が訪れ、ウィンストン・セーラムは『イースター・シティ』とも呼ばれる。
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