背景と序章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 21:54 UTC 版)
「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」の記事における「背景と序章」の解説
1990年、ツチが支配するルワンダ愛国戦線(RPF)がウガンダからルワンダ北部に侵攻したことでルワンダ内戦が始まった。RPFの戦闘員の大半は、20世紀半ばにフツ政権による民族排斥から逃れた難民かまたはその子だった。政権転覆は成らなかったが、RPFは国境地帯に地歩を確立した。戦況が膠着したのが明らかになると、両者は1992年5月より和平交渉を始め、これは1993年8月のアルーシャ協定調印に結実して連立政権が作られることとなった。 しかしながら、戦争は内部対立を激化させていた。RPFの脅威の増大によって、所謂フツ・パワーイデオロギーがフツ内で支持を得た。フツ・パワーの立場からは、RPFはツチ独裁の復活とフツの奴隷化を目論む外敵として捉えられ、あらゆる犠牲を払ってでも阻止すべきものとされた。この政治勢力の影響により、ハビャリマナ大統領はディスマ・ンセンギヤレミェ(de)首相から和平合意を遅らせていると書面で非難される事態となり、その結果第一次ハビャリマナ政権は1993年7月に瓦解した。開発国民革命運動(MRND)党の党員だったハビャリマナ大統領は、ンセンギヤレミェ首相を解任し、RPFに対してより非寛容と見られていたアガート・ウィリンジイマナを後任に据えた。ところが、主要な野党勢力はアガートの起用に反対し、それぞれが二つの勢力に割れた。フツ・パワーの断固護持を訴える強硬派と、講和による戦争終結を求める穏健派である。ウィリンジイマナ首相は連立政権を樹立できなかったので、アルーシャ協定の批准は不可能だった。フツ系政党の中で最も過激な共和国防衛同盟(CDR)は、民族浄化を公に主張し、アルーシャ協定を全く支持していなかった。 1993年を通じて治安状況は悪化した。武装したフツ民兵はツチを国中で襲撃し、フツ・パワーの指導層は治安部隊をジェノサイドに転用する方策がないか検討し始めた。1994年2月、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)配下の軍事部隊を率いるロメオ・ダレール総司令官は次のように述べた。 「政治的議論の時間は尽きようとしている。今や治安面での僅かな火花が破滅的結果を招きかねない」。 1994年4月初頭、国連安保理において、アメリカと非常任理事国はUNAMIRを巡り鋭い対立を見せた。アメリカの中央情報局(CIA)が2月に纏めた秘密報告は、アルーシャ協定の破綻は50万人の死を招くと予見していたが、米国は先立ってのソマリア内戦の痛手から国連の平和維持活動への積極参加を見直そうとしており、UNAMIRの終了に向けてロビー活動を行っていた。4月5日火曜日の夕刻、UNAMIRの活動を三ヶ月間延長するという妥協案が漸く合意を見た。この間、ハビャリマナ大統領は諸国歴訪を終えて帰国しようとしていた。4月4日にはザイール(現:コンゴ民主共和国)に飛んでモブツ・セセ・セコ大統領と会談し、6日にはタンザニアのダルエスサラームに日帰り予定で飛んでタンザニア大統領主催の近隣国首脳会談に出席した。その日の夕刻、帰路の飛行機にはブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領とその閣僚数人も便乗した。これはフランス政府がハビャリマナ大統領に贈った専用機ダッソー ファルコン 50が、ンタリャミラ大統領自身の専用機よりも高速だったためである。 ジャン・カンバンダ暫定首相(en)がルワンダ国際戦犯法廷(ICTR)で証言したところによると、ザイールのモブツ大統領から「4月6日はダルエスサラームに行くな」との警告があった。モブツ大統領は「この警告はパリのエリゼ宮殿の非常な高官が発したものだ」と述べたという。モブツ大統領によれば、この警告と撃墜事件(後述)の翌7日に発生したフランソワ・ミッテラン大統領の側近のフランソワ・ド・グロスーヴル(en)の自殺事件の間には関連があるという。
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