アルーシャ協定
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アルーシャ協定(アルーシャきょうてい、英語: Arusha Accords)、公式にはルワンダ共和国政府とルワンダ愛国戦線間の和平協定またはアルーシャ和平協定、アルーシャ交渉とも呼ばれる、は1993年8月4日にタンザニアのアルーシャにて、ルワンダ政府と反政府組織のルワンダ愛国戦線が、3年にわたって続いたルワンダ紛争を終結させるために調印した5つの協定(議定書)である。
主にアフリカ統一機構とアフリカ五大湖地域の首脳陣によって組織され、1992年7月12日から1993年8月4日まで議論が行われ、最終的に調印に至った。
アルーシャ協定では総選挙に備え、1992年4月から暫定政府を構成していた反体制派RPFと5つの政党を含む広範な暫定政府の設立が構想されていた。
協定には法の支配や紛争による難民と権力分配協定による難民双方の送還、そして政府軍と反体制軍の合併といった平和維持のために必要な他の点についても含まれていた。
外部リンク
- Full text of Arusha Accords
- Tracing the roots of the Accords Details international pressure leading to the Arusha talks, the talks themselves, and their failed implementation.
- Undercurrent Journal analysis An argument that the 163 articles of the Arusha Accords could have been adjusted to create a consensus supporting them.
- The United Nations page on UNAMIR, including the mandate, background, facts and figures, etc.
アルーシャ協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 21:44 UTC 版)
1993年8月4日、ルワンダ政府とルワンダ愛国戦線 (RPF) との間で戦われたルワンダ紛争の仲介をタンザニアが担当し、アルーシャで和平協定のアルーシャ協定が調印された。これに伴い、ルワンダでは暫定政府が樹立され、戦闘は一応の収束を見た。ただし、この後戦闘は再開され、1994年7月まで続いた。この際に行なわれたジェノサイドの責任追及のための国際裁判所、ルワンダ国際戦犯法廷 (ICTR) がアルーシャに設置されている。 1999年11月に東アフリカ共同体設立条約が締結され、2001年1月に再設置された東アフリカ共同体の本部もアルーシャに設置された。また、2006年7月3日、アフリカ連合によりアルーシャにアフリカ人権裁判所が設置された。
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