ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで
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「ルワンダ虐殺」の記事における「ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで」の解説
詳細は「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」および「ルワンダ虐殺における初期の出来事」を参照 1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。 4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレール少将は、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ首相にアルーシャ協定に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラ大佐はウィリンジイマナ首相の指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレール少将は、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレール少将とバゴソラ大佐の議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に 殺害された。 この事件に関しては、2007年にベルギーブリュッセルの裁判所において、ベルギー兵の連行を命じたベルナール・ントゥヤハガ(英語版)少佐が有罪判決を受けた。首相以外にも農業・畜産・森林大臣のフレデリック・ンザムランバボ(英語版)や労働・社会問題大臣のランドワルド・ンダシングワ(英語版)、情報大臣のフォスタン・ルチョゴザ(英語版)、憲法裁判所長官のジョゼフ・カヴァルガンダ(英語版)、前外務大臣のボニファス・ングリンジラ(英語版)などのツチや穏健派フツ、あるいはアルーシャ協定を支持した要人が次々と暗殺された。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『Shake Hands with the Devil』にて以下のように述べている。 私は軍司令部を召集し、ガーナ人准将のヘンリー・アニドホ(英語版)と連絡を取った。アニドホ准将はゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ(自由党の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)……国際連合ルワンダ支援団はフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている。 上記のように、共和民主運動の指導者であったトゥワギラムングだったが国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。トゥワギラムングもウィリンジイマナ首相の死後に首相へ就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となったテオドール・シンディブワボが首相として任命したのはジャン・カンバンダ(英語版)であった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。
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