アルーシャ宣言
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1967年2月、タンザニア連合共和国初代大統領であったジュリウス・ニエレレは『アルーシャ宣言(英語版)』を発表。タンザニアの社会主義化をすすめ、中華人民共和国との結びつきを強める一方、経済の自立化を図り農業の集団化を導入した。彼の政策は一般にウジャマー村構想として知られ、アフリカ部族社会独自の社会主義的農業経営方法であるウジャマーを重視し、銀行や企業の国営化などの統制経済により社会の平等化を図る彼の理想主義の現れであった。結局この計画は農業生産の激減などで失敗に終わるも、アフリカ人による独自路線の追求は、欧米の援助を頼る追従路線をとっていた他の途上国に、少なからず影響を与えたといえる。 また、東アフリカを東アフリカ連邦(英語版)に統合する構想を掲げてきたニエレレの後押しで、同年6月に東アフリカ協力条約が締結され、アルーシャに東アフリカ共同体の本部と事務局が設置された。 1979年7月、ニエレレが議長を務めるフロントライン諸国(英語版)はアルーシャで白人国家ローデシアやアパルトヘイト体制の南アフリカ共和国から自立した経済圏を目指す南部アフリカ開発調整会議(英語版)の創設を決定し、翌年1980年4月にザンビアのルサカで設立された。これは南部アフリカ開発共同体の前身になったが、1982年から事務局はボツワナのハボローネに置かれた。
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