ジョージア州と両カロライナ州を抜ける最後の方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 09:20 UTC 版)
「ジャドソン・キルパトリック」の記事における「ジョージア州と両カロライナ州を抜ける最後の方面作戦」の解説
シャーマンは1864年のキルパトリックを要約して、「私はキルパトリックが最高の唐変木だと知っていたが、この遠征では私の騎兵隊をまさにそのような男が指揮するのを望んだ」と言った。 1864年5月からキルパトリックはアトランタ方面作戦に参加した。5月13日、レサカの戦いで太腿に重傷を負い、そのために7月遅くまで戦場に復帰できなかった。その後、南軍前線の背後の襲撃でかなりの成功を収め、鉄道を剥がしたり、ある時点ではその師団がアトランタの敵陣地周辺を完全に乗り回したりした。 キルパトリックはシャーマン軍に隋いて、サバンナまでの海への進軍から北のカロライナ方面作戦まで従軍し続けた。南部の資産を破壊することに喜びを見出した。2回ほどその粗野な本能が働かないことがあった。キルパトリックがコロンビアを通過するときに出会った若い南部女性と寝ている時に、南軍ウェイド・ハンプトン少将の指揮する騎兵隊がその宿営地を襲ったことと、モンローズ交差点の戦いで下着のまま命からがら逃げ出し自部隊が結集するのを待ったことだった。1865年4月17日、ノースカロライナ州ダーラム近くのベネットプレースで持たれた降伏交渉の席ではキルパトリックがシャーマン少将と同行した。 キルパトリックは1865年4月から6月までミシシッピ軍事地区軍の騎兵軍団で1個師団を指揮した。6月18日には志願兵の少将に昇進した。
※この「ジョージア州と両カロライナ州を抜ける最後の方面作戦」の解説は、「ジャドソン・キルパトリック」の解説の一部です。
「ジョージア州と両カロライナ州を抜ける最後の方面作戦」を含む「ジャドソン・キルパトリック」の記事については、「ジャドソン・キルパトリック」の概要を参照ください。
- ジョージア州と両カロライナ州を抜ける最後の方面作戦のページへのリンク