フッカーの第20軍団
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「第20軍団 (北軍)」の記事における「フッカーの第20軍団」の解説
ジョセフ・フッカーは、1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いの敗北の責任を問われてポトマック軍司令官を解任された。しかしゲティスバーグの戦いの後、ワシントンはフッカーにポトマック軍の第11軍団と第12軍団をフッカーに預け、ブラッグに包囲されているチャタヌーガ解放のために派遣した。フッカーはワウハッチーの戦い(Battle of Wauhatchie)で決定的な役割を果たし、包囲されている北軍への連絡路を開き、「雲の上の戦い」として知られるルックアウト山の戦いにも勝利した。 1864年4月4日、アトランタ方面作戦の直前に、ウィリアム・シャーマンは第11軍団と第12軍団を統合して第20軍団とし、フッカーを軍団長としてカンバーランド軍の所属とすることを承諾した。カンバーランド軍はテネシー軍共に作戦に参加し、第20軍団は果敢に戦った。アトランタの戦いでテネシー軍司令官ジェイムズ・マクファーソン少将が戦死し、後任にオリバー・O・ハワード少将が任命された。これを不満としてフッカーは軍団長を辞任した。ハワードが彼より後任であること、またおそらくはチャンセラーズヴィルにおいてフッカーが警告していたにも関わらず、ハワード(当時第6軍団長)が適切な防御体制を取らず、南軍ストーンウォール・ジャクソン中将の側面攻撃を許し北軍の敗北を招き、結果としてフッカーがポトマック軍司令官を解任されることとなったためであろう。フッカーの後任の軍団長は、共に前第12軍団長であったアルフェウス・ウィリアムズ、続いてヘンリー・W・スローカムが就任した。9月1日にアトランタが降伏した後、第20軍団はアトランタに最初に入城した。その後シャーマンのジョージア軍に加わり海への進軍に参加した。海への進軍ではウィリアムズが再び軍団長となり、カロライナ方面作戦まで指揮を執った(スローカムはジョージア軍司令官に昇進した)。第20軍団は12月のサバンナで大きな役目を果たし、カロライナ方面作戦の全期間を通じて多くの戦闘に参加した。特にベントンビルの戦いでは南軍ジョセフ・ジョンストン大将の反撃の大部分を吸収した。ベントンビルではジョンストンの南軍を殲滅することができなかったため、シャーマンはウィリアムズに代わってより積極的なジョセフ・マウワー(Joseph A. Mower)を軍団長に据えた。戦争終了後にワシントンの大観閲式に参加し、1865年6月に軍団は解散した。
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