バンクス軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/29 00:39 UTC 版)
「レッド川方面作戦」の記事における「バンクス軍の撤退」の解説
ポーターはアレクサンドリアの滝でその装甲砲艦の多くを通すことができなかった。ジョセフ・ベイリー大佐が堰を考え出し、それにバンクスは夜も昼も注意を向けることになった。部分的な堰が崩壊するまでに数隻は通過した。上流にもう一つ堰が作られて水深を増し、行軍を再開することができた。アレクサンドリアではバンクスと他の多くの将軍たちとの関係がさらに悪化した。どちらもが親しい新聞や支持者達に誇張された話を送った。ジョン・A・マクラーナンド将軍がテキサスから援軍を率いて到着し、マクラーナンド自身もA・J・スミスやポーターとの関係が以前からうまく行っていなかった。A・J・スミスは従いたいと思う命令にしか従わなかった。テイラーは自軍を巧妙に使って北軍の指導層に自軍の勢力を実際より多く信じさせることに成功していたが、堰の建設は妨害しなかった。むしろ艦船を攻撃することで下流を堰き止めた。南軍は綿花の多くを焼却したために、多くの投機家達はアレクサンドリアで失望した。 北軍がアレクサンドリアを発ったとき、町は炎に包まれたが、その出火原因については議論が続いている。ミシシッピ川に至る過程で5月16日にマンスーラの戦いが起こったがほとんど損失は出なかった。続いて5月18日にイェロー・バイユーの戦いが起こり、燃える林の中でそこそこの損失が出た。輸送船も一緒になって動き、北軍は広いアトチャファラヤ川を渡ることができた。テイラー将軍は北軍の帰還を阻止すると明言していたが、それはできなかった。テイラーはカービー・スミスが支援してくれなかったことを非難した。バンクス将軍がミシシッピ川に近い所まで到着すると、エドワード・キャンビー将軍が待っており、この時点でメキシコ湾岸軍の野戦指揮官職を交代することになった。
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