早朝の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:12 UTC 版)
4月6日午前6時、ジョンストン軍はコリンス道路に跨って戦闘配置に就いた。実際にこの軍隊は北軍宿営地からちょうど2マイル (3 km)離れて夜通し見破られないように戦闘隊形で露営して過ごした。その接近と夜明けの突撃はほとんどありとある戦略と戦術の急襲を成功させた。北軍は早期警戒のための歩哨を事実上立てていなかった。グラントは4月5日の夜にハレックに宛てて電報を打ち、「私は我が軍が攻撃(一般的な攻撃)されるという考えはほんの少しも無いが、そのような事が起こった場合に備えておくだろう。」と伝えた。グラントの準備の程度は言っていた程ではないことが分かった。グラント軍宿営地の中で古参指揮官であるシャーマンは南軍が近くにいるとは思わなかった。シャーマンは南からの攻撃可能性を軽視し、ジョンストン軍は西のテネシー州パーディの方角から攻撃を掛けてくると予測した。その朝早く、ベンジャミン・M・プレンティスは偵察のために第25ミズーリ歩兵連隊を派遣しており、午前5時15分に南軍の前哨部隊と交戦した。活発な戦いで北軍がいくらか良い配置に就くことの助けにはなったが、北軍の指揮官層は適切な備えができていなかった。 ジョンストンとボーリガードが統一された戦闘計画を持っていなかったので、南軍部隊の混乱した並びが攻撃の効果を減らすことになった。ジョンストンはアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスに宛てて、攻撃は次のようになると電報を打った。「ポークが左翼、ブラッグが中央、ハーディが右翼で、ブレッキンリッジが予備隊となる。」その戦略は、北軍が供給線と退路でもあるテネシー川に達するのを防ぐためにその右翼から攻撃させることだった。ジョンストンはボーリガードに後方に残って兵士や必要になる物資を指導するよう指示し、自分は馬に乗って前線に行き、戦う兵士を指揮した。このことは実質的に戦闘全体の指揮を考え方の異なるボーリガードに譲ったことになり、ボーリガードは単純に3波で攻撃して北軍を真っ直ぐテネシー川に押し込むと考えていた。ハーディとブラッグの軍団はその師団を横一列で、約3マイル (5 km)の幅で攻撃を始めた。これらの部隊が前進すると、混ざり合い制御が難しくなった。軍団指揮官達が予備隊無くして横隊で攻撃した。大砲は突破を効果的にするための集中ができなかった。午前7時半頃、ボーリガードは後方にいるその位置からポークとブレッキンリッジの軍団に右翼と左翼からの前進を命じ、その効果を薄めさせた。このためにその攻撃は横一線隊形による正面攻撃の様相になり、成功するために必要な厚みも重みも欠けていた。現代の意味での指揮と制御は最初の攻撃の開始時点から失われた。 Maj. Gen.レオニダス・ポーク、南軍 Maj. Gen.ブラクストン・ブラッグ、南軍 Maj. Gen.ウィリアム・J・ハーディ、南軍
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