暴動蜂起
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1862年8月18日早朝、ダコタ・スー族の戦士団は、レッド・ウッド滝のそばにあるBIAの出先事務所である「南スー族管理局」に攻撃をかけた。 白人はこの襲撃で、リトルクロウ酋長がスー族戦士を率いたとしているが、これは誤りである。スー族インディアンの戦士はすべて個人の判断で行動するものであり、誰かに指図されたり率いられたりする習慣は無い。そもそも酋長は「調停者」であって、「軍事指導者」ではない。暴動はすべて戦士たちの自由意志で実行された。参加したくない部族民や戦士はこれに参加しなかった。 スー族に対して「草か糞でも喰わせておけ」と暴言を吐いたアンドリュー・ミリックは、管理局の建物2階の窓から脱出しようとしているところを見つかり、最初に殺された白人となった。後に見つかった彼の遺体には、口一杯に草が詰め込まれていた。 南スー族管理局の建物は占領されてダコタ戦士達によって焼かれた。しかし、彼らが建物を焼いている間に、多くの白人入植者がレッド・ウッドの渡し舟で川を渡り逃げ出すことができた。スー族は白人を皆殺しにしたわけではなかった。ミリックのような因果応報も見られたが、彼らと仲が良かった白人は襲われもせず、無事だった者も多かった。 ミネソタ州民兵と第5ミネソタ志願歩兵連隊のB中隊が暴動を鎮めるために派遣されたが、「レッドウッド・フェリーの戦い」で敗北を喫した。この2つの戦闘で少なくとも44名の市民と民兵の死亡が報告された。 8月19日、ダコタ族は攻勢を続け、ニューアルムの入植地を襲った。ダコタ族の戦士達は川沿いの防御の厚いリッジリー砦への攻撃はやめ、その代わりに町に向かい、通り道にいた白人入植者達を殺した。町に突入される前に、白人達は町の中央で防衛隊を組織し、短時間の間ダコタ族を寄せ付けずにおくことができた。しかし、ダコタ族の戦士達は防御線の一部を突破し、町の一部を焼いた。その夜、雷雨のおかげでダコタ族の攻撃がやんでいる間に、ニューアルムは正規兵や近くの町からの民兵で補強され、住民は町の周りにバリケードを構築した。 8月21日、ダコタ族はリッジリー砦を攻撃した。ダコタ族は砦を制圧できなかったが、砦からニューアルムへ向かっていた白人の救援隊はダコタ族に待ち伏せされ、またリッジリー砦の攻防で人手を費やし、米軍の戦力を大きく損ねた。ダコタ族はミネソタ州南中部や当時のダコタ準州東部で、農園や小さな入植地への襲撃も行った。 9月2日、ミネソタ州民兵隊は反撃を試みたものの、「バーチクーリーの戦い」で再度大敗北を喫した。この戦いはダコタ族がリッジリー砦から25kmにあるバーチクーリーの米軍分遣隊150名を襲ったものである。この分遣隊は生存者を発見し、白人の死体を埋葬し、またダコタ族戦士の居場所を報告するために派遣されていた。早朝の攻撃で3時間に及ぶ銃撃戦が始まった。ダコタ族が2人戦死し、米軍は13名の兵士が戦死し、47名が負傷した。同日午後、リッジリー砦から部隊2040名の救援があった。 ダコタ族はさらに北で、レッド川道沿いの無防備な駅馬車停留所や川の渡し場を襲い、またミネソタ州北西部やダコタ準州東部ではギャリー砦とレッド川渓谷のセントポールの間の交易路を襲った。この人口希薄地帯の多くの白人入植者やハドソン湾会社など地元の会社の従業員が、「アバークロンビー砦」に逃げ込んだ。8月下旬から9月下旬にかけて、ダコタ族は「アバークロンビー砦」に数回攻撃を仕掛けたが撃退された。 一方、レッド川の蒸気船や平底船による交易は止まり、郵便配達人、駅馬車の御者および軍隊の伝令などが、ペンビナ、ギャリー砦、セントクラウドおよびスネリング砦といった入植地に向かう途上で殺された。最終的にアバークロンビー砦の守備隊はスネリング砦から来たアメリカ陸軍の中隊に救援され、避難していた市民はセントクラウドに移された。
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