暴動後の社会情勢とは? わかりやすく解説

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暴動後の社会情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:13 UTC 版)

伊勢暴動」の記事における「暴動後の社会情勢」の解説

時の為政者大久保利通地租改正がうまく進まなかったことに焦り覚えており、茨城県一揆起きた時点減租切り出す決心固めていた。しかし茨城一揆はすぐに鎮圧されたため撤回伊勢暴動受けて12月31日朝に閣議招集、翌1877年明治10年1月4日地租2.5%に引き下げた地租の率自体はわずか0.5%下げられただけであるが、日本中の農民恩恵もたらすこととなった地租改正前の税額比較すると旧・三重県域で22.9%、旧・度会県域で26.3%と大幅な減税となった。ただし、旧・三重県域でも抵抗により地租改正遅れた桑名郡朝明郡河曲郡600.1%の減税とどまった農民恩恵受けたことと引き換えに、国家歳入の8割超を地租収入占めていた明治政府は、1000万円以上の歳入減という大きな打撃を蒙り、官僚削減役所統合整理断行された。 この成果21世紀初頭の現在、「竹槍ドン突き出す二分五厘」の歌で表されているが、当時の新聞報道にこの歌はなく、東京日日新聞は「竹槍ちょいと突き出す二分五厘」と報じている。三重短期大学茂木陽一の調査によれば、「ドン突き出す」の初出は、1954年三重県農業史に関する論文であるという。 伊勢暴動三重県全体で約2,300戸の被害出したものの、暴動始まった飯野郡では被害戸数は0で、員弁郡491戸、三重郡358戸、桑名郡278戸など北勢での被害が目立つ。これは、暴動始まった南勢では単位行動するなど規律正しく一揆進んだに対して一揆隊が北上するうちに付和雷同した群衆暴徒化ていったためである。例外として、南勢でも飯高郡では376戸の被害出している。被害総額139万円で、1879年明治12年)の三重県地方税収入33万円余の約4.2倍に上った結果的に政府対す農民勝利と言われる伊勢暴動であるが、死者35人、負傷者48人、絞首刑1人終身懲役刑3人を含む処分者50,773人という大きな犠牲払った上の勝利であった伊勢暴動鎮圧のため、三重県名古屋鎮台から2中隊大阪鎮台大津営所1中隊警視庁から巡査200派遣され一方で、旧津・上野神戸久居各藩士が約4,400集められ鎮台兵到着前の政府側の武力行使は主に士族によってなされた江戸から明治時代変わり近代軍事制度整いつつある中でも緊急時には慣例的に士族徴用が行われているという当時の状況があった。伊勢暴動茨城県での一揆にあっては県令鎮台派遣要請をせず、士族召集をかけたことが鎮台側より抗議がなされ、1877年明治10年2月から3月にかけて「各鎮台長官への内愉」・「騒擾につき内達」が出され鎮台士族徴用併用状態を解消し武力行使権限鎮台一義的与えられることになった

※この「暴動後の社会情勢」の解説は、「伊勢暴動」の解説の一部です。
「暴動後の社会情勢」を含む「伊勢暴動」の記事については、「伊勢暴動」の概要を参照ください。

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