暴動後の社会情勢
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時の為政者・大久保利通は地租改正がうまく進まなかったことに焦りを覚えており、茨城県で一揆が起きた時点で減租を切り出す決心を固めていた。しかし茨城の一揆はすぐに鎮圧されたため撤回、伊勢暴動を受けて12月31日朝に閣議を招集、翌1877年(明治10年)1月4日に地租を2.5%に引き下げた。地租の率自体はわずか0.5%下げられただけであるが、日本中の農民に恩恵をもたらすこととなった。地租改正前の税額と比較すると旧・三重県域で22.9%、旧・度会県域で26.3%と大幅な減税となった。ただし、旧・三重県域でも抵抗により地租改正の遅れた桑名郡・朝明郡・河曲郡の60村は0.1%の減税にとどまった。農民が恩恵を受けたことと引き換えに、国家歳入の8割超を地租収入が占めていた明治政府は、1000万円以上の歳入減という大きな打撃を蒙り、官僚の削減や役所の統合整理が断行された。 この成果は21世紀初頭の現在、「竹槍でドンと突き出す二分五厘」の歌で表されているが、当時の新聞報道にこの歌はなく、東京日日新聞は「竹槍でちょいと突き出す二分五厘」と報じている。三重短期大学の茂木陽一の調査によれば、「ドンと突き出す」の初出は、1954年の三重県の農業史に関する論文であるという。 伊勢暴動は三重県全体で約2,300戸の被害を出したものの、暴動の始まった飯野郡では被害戸数は0で、員弁郡491戸、三重郡358戸、桑名郡278戸など北勢での被害が目立つ。これは、暴動の始まった南勢では村単位で行動するなど規律正しく一揆が進んだのに対して、一揆隊が北上するうちに付和雷同した群衆が暴徒化していったためである。例外として、南勢でも飯高郡では376戸の被害を出している。被害総額は139万円で、1879年(明治12年)の三重県の地方税収入33万円余の約4.2倍に上った。結果的に政府に対する農民の勝利と言われる伊勢暴動であるが、死者35人、負傷者48人、絞首刑1人と終身の懲役刑3人を含む処分者50,773人という大きな犠牲を払った上の勝利であった。 伊勢暴動の鎮圧のため、三重県に名古屋鎮台から2中隊、大阪鎮台大津営所1中隊、警視庁から巡査が200名派遣された一方で、旧津・上野・神戸・久居の各藩士が約4,400名集められ、鎮台兵到着前の政府側の武力行使は主に士族によってなされた。江戸から明治に時代が変わり、近代軍事制度が整いつつある中でも、緊急時には慣例的に士族の徴用が行われているという当時の状況があった。伊勢暴動や茨城県での一揆にあっては、県令が鎮台に派遣要請をせず、士族に召集をかけたことが鎮台側より抗議がなされ、1877年(明治10年)2月から3月にかけて「各鎮台長官への内愉」・「騒擾につき内達」が出され、鎮台と士族徴用の併用状態を解消し、武力行使の権限が鎮台に一義的に与えられることになった。
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